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鎌倉北条氏

2017.02.17(12:30) 37

**長期安定政権へ

*北条氏の分流

この時期の北条一族の男子だけを系図で数えてみると、すでに時政~義時~泰時と代を重ねてきて、30人を超す大家族になっている。 それぞれの館や所領の地名を冠して、全体として分流の傾向が顕著である。

泰時の弟たちからは、名越(nagoe)、極楽寺、亀谷(kamegayatu)、伊具が現れ、その子の代には江間(ema)、金沢(kanezawa)、が生ずる。  叔父時房の系統からは、佐助、大仏(osaragi)、が分流する。      これからさらに阿蘇、赤橋、淡河、尾張、常葉、塩田、桜田、普恩寺、瓜連、東漸寺、分流していくのも、さほど遠い事ではない。

++北条氏・伊具流・・・・・義時の四男・有時の流れ、側室の所生で病弱、家格は低く、幕府要職経験者は少ない。

このように一族分流の傾向が濃くなっていた時、これを全体としてまとめ上げて北条一族として結束させ、三浦、安達、足利などの大豪族たちと力を拮抗させて行くのが、北条氏三代目惣領としての泰時の責務だった。

遺領配分で弟妹たちに多くを与えたのも、政村に厳しい処置をしなかったのも、泰時の立場が弱かったからだし、また泰時がその立場を強化しようとした現れでもあった。
北条泰時公菩提寺・臨済宗建長寺派 常楽寺参道  (鎌倉市・大船)
常楽禅寺

*家令職設置と家法制定

泰時は立場の強化の手始めに、家令職を創設した。伊賀ノ方事件がほぼ終結した元仁元年(1224)、被官の尾藤左近将監景綱(kagetuna)を初代・家令に任じたのです。 因みに北鎌倉の尾藤ヶ谷は、彼の館の地であろう。

++尾藤ヶ谷・・・・・浄智寺門前・横須賀線踏切内を鎌倉方面に入った谷戸付近に比定。

北条氏の家令職は、その後、二代目の平左衛門尉盛綱(morituna)のあと、複数制となり執事と呼ばれるようになると、その筆頭が内管領(naikanrei)という事になる。 鎌倉末期に権力を振るった長崎円喜がこれに中る。

家令職創設に続いて泰時が行ったのは、北条氏の家法の制定だった。  貞永式目より先であったから、これこそ 「日本最初の武家法」 になる筈であったが、残念ながら現存していない。  以降、随時に付け加えられ、やがて御内法令と呼ばれるようになる。

こうして泰時は、家令の創設と家法の制定とによって、北条一門に対する惣領としての権力の強化を図ったのであるが、同時に北条氏の惣領家に宗教的・精神的な権威性を付与する策に、着手していたらしい。
北条氏の惣領を亡父義時の法名である 「得宗」 と呼び、 その系統を 「得宗家」 、その所領を 「得宗領」 と呼んで、北条一門庶氏家と区別することによって、一定の権威性の確立を図ったのです。

鎌倉北条氏ということになれば、 初代は時政になるわけだが、泰時が時政を初代と仰がなかったのは、牧ノ方事件などで時政の名には汚点があると思ったのであろう。  反して義時の名には、輝かしい承久の乱の勝利者というイメージがあり、北条一門はもちろん、一般御家人に至るまで、賞賛の対象にするのに、相応しかったからであろう。

家督を嗣立した直後、一門庶家に強い態度をとれなかった泰時は、当然のことながら執権就任の直後には、幕府御家人に対しても強い態度はとれなかった。

*政子の死

その泰時の立場がさらに弱まったのは、執権就任の翌年の嘉禄元年(1225)、でした。 6月に大江広元が亡くなり、7月に北条政子が死んだのである。  背後から支えていた人物二人を、泰時は同時に失ったのである。   北条政子69歳・・・・・法名・・・安養院如実。 (勝長壽院御堂御所にて火葬)
鎌倉五山第三位・臨済宗建長寺派 壽福寺墓地  北条政子之墓
政子墓・寿福寺
浄土宗・祇園山安養院田代寺  本堂裏手・北条政子供養塔 (毎年ツツジが美しい)左手 の小さい塔
北条政子・供養墓
頼朝の妻として幕府御家人から奉られ、源氏将軍家と北条氏とを密接に結びつけ、ひいては北条氏の幕閣における地位をもたらしただけでなく、幕府の重大事に際しては、しばしば尼将軍として、簾中に聴政した権威ある存在でした。 その政子が死んだのである。             次回に続く

丁酉・癸卯・乙亥
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