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鎌倉北条氏

2017.02.21(08:15) 38

**長期安定政権へ

*貞永式目の制定

大きな後ろ盾二人をを失った泰時が、 叔父時房に援助を求めた感があるのが、執権複数制である。 六波羅探題南方だった時房を鎌倉に呼んで、連署にしたのです。

同じころ、将軍御所の移転という事が幕閣で問題になっていた。  大蔵御所は三度火災に遭い、三度再建されたものだが、大分手狭になっていた様だ。
頼朝の頃からの宿将は多く死んで、今は二代目、三代目に代替りしています。 さらに鎌倉自体が武家の都として、大きく発展しています。  その様な事情やら目的が絡んで、まず御所の移転が検討された。場所は若宮大路に面した宇都宮辻子(utunomiyazusi)です。

嘉禄元年(1225)12月、新築なった新御所に、将軍頼経(yoritune)が引き移った。  儀式は略儀ではあったが、陰陽道など成すべきことは全てなされた。
その翌日には、新御所で重大な会議が開かれ、泰時が幕閣の重臣11人を評定衆に指名して、史上初めての評定衆会議を開いた。 11名の詳細は以前既述したしたので省略します。

さきに叔父時房を連署にして両執権という双頭政治を開いた泰時が、重要幕政に合議制を取り入れると同時に、重臣たちの協力が得られるような体制にしたのである。  それからの数年間、鎌倉は平穏でした。 巷の重要な処に石塔が建てられたのも、此の頃だったかも知れない。 「塔の辻」と呼ばれる。

推定される「塔の辻」は次のようになる。

〇 東北隅は、横大路に小町大路と西御門小路とが交差する筋替橋の橋詰。
〇 東南隅は、小町大路と東大路とが交差する本八幡か、荒居閻魔堂の前。
〇 西南隅は、長谷大路と武蔵大路とが交差する六地蔵の前。
〇 西北隅は、武蔵大路に横大路とが交差する寿福寺門前。
その後、鎌倉中の範囲は西方に発展したので 「塔の辻」 も西に移動する、小袋坂道に沿って、建長寺門前、浄智寺門前、円覚寺白鷺池際も、 「塔の辻」 という事になる。


そして貞永元年(1232)8月、泰時の政治に、魂が入った。  「関東御成敗式目五十一ヵ条」 、俗に貞永式目と呼ばれる法律が制定施行されました。 頼朝以来の先例と鎌倉武士社会での道理とが、その骨幹となっている。
こうして泰時の政治は、執権政治として結実した。  先に導入した評定衆制という合議制と、今回制定した貞永式目による法治主義とを二本の柱とした法律に従った政治を目指しました。

一門に対して泰時は、故義時の法名・得宗を持ち出し、幕閣では 「右大将(頼朝)家ノ先例」 を振りかざしている。 一門に対しては家令職の創設と家法の制定、幕閣では評定衆と貞永式目である。

ここに私たちは、泰時の立場が、一門に対しても幕閣においても決して強固なものではなかった事に気が付くのです。 執権泰時の立場が弱かったからこそ、執権政治が確立したのです。
その執権の職に、泰時は十八年間も在職したのです。 その時期(期間)、合戦も陰謀も姿を潜めて、世情は平和だった。


中世鎌倉の遺産 「やぐら」 群、二階堂・覚園寺裏山一帯に177穴が確認できる。
(岩に五輪塔や仏様・梵字等が直接彫り込まれています)

百八やぐら
DSCN2604.jpg

*貞永式目の詳細については別の機会に紹介します。

*泰時の子供たち

泰時は家庭運には恵まれなかったたことが知られています。
建仁二年(1202)八月、頼朝生前の下知に従って、三浦義村の娘と結婚し、翌年には長男時氏(tokiuji)が生まれた。 泰時21歳。 続いて生まれた娘は、のちに足利義氏(yosiuji)室になる。 しかし、結婚後十年位で離婚しています。

建暦二年(1212)、泰時の後妻安保実員(sanekazu)の娘が、次男時実(tokizane)を生んでいる。 安保ノ方が生んだ娘は、三浦泰村(yasumura)(三浦義村・嫡男)に嫁している。  また連署時房の子・大仏流北条朝直(tomonao)室も、泰時の娘だ。

嘉禄三年(1227)6月、事件が起きた。 若者たちが斬り合って、泰時次男・時実(tokizane)が斬られて死亡するという事件だ。 下手人は得宗被官の高橋次郎で、ただちに腰越で斬首された。
*事件後、高橋の周囲に被害が及ばなかった事から、どうやら非は時実側にあったようだ。・・・・

更に大事が起きていた、六波羅探題北方として在京していた嫡男時氏(tokiuji)は、病という事で鎌倉に帰っていたが、二十八歳という若さで死んだのである。
すでに安達景盛(kagemori)の娘を妻にしていた時氏には、経時(tunetoki)、時頼(tokiyori)、時定(tokisada)のほか、四人の娘もあった。 夫時氏に先立たれた安達ノ方は、鎌倉・甘縄の実家に戻って松下禅尼(matusitaozenni)と名乗った。
次回に続く

丁酉・癸卯・己卯
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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