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鎌倉北条氏

2017.02.25(07:21) 39

**幕政改革

*嫡孫経時・時頼

泰時、嫡男時氏の早世によって、執権・泰時の後継は孫の経時(tunetoki)に引き継がれた。
泰時の孫、男子三人は時氏夫人・松下禅尼(安達景盛・娘)によって育てられ、 賢夫人として名の高い婦人に育てられたのだから、経時・時頼・為時の男子・三兄弟は立派に育っていた。 しかし祖父泰時の目には、嫡孫経時(tunetoki)は心許なく感じられていたらしい。  この経時に比して次弟時頼は、泰時のお気に入りだったようだ。  

泰時が政治家として多くの仁政を行ったことは、よく知られています。 「寛喜の大飢饉」 の際には、御家人たちに贅沢を禁じ、自分が守護を兼任していた伊豆・駿河の両国では、非常時米の放出賑給を行った。
貞永元年、勧進阿闍梨往阿弥(ouami)が鎌倉東海岸に和賀江島(wagaejima)の築港の許可を申請したとき、許可を与えた上にその事業に多大な後援を与え、物資流通の拡大を図った。

更に、鎌倉東北隅の朝夷奈口を拡幅して弟・実泰の武蔵六浦荘と結び、西北隅の小袋坂口を整備して山内荘との交通をスムースにした。 鎌倉への物資の流れを円滑にするという向きもありますが、泰時の狙いは 「いざ鎌倉」 というときに備えての軍事的な道路の整備だったと考えています。

又、泰時の政治で特徴的だったのは、京都朝廷に対する不干渉であった。  承久の乱の勝利者だったのだから、武力を背景にして圧力をかけて幕権の伸張を図ることもできたはずだが、泰時はそれをしなかった。

嘉禎二年(1236)、12月 執権・北条泰時が若宮大路新御所の北隣に自邸を新造して移る。 この泰時の鎌倉邸は横大路と若宮大路とを二辺とする地にあり鶴岡八幡宮の門前に位置していた者と思われます。  周辺には多くの御家人らが家屋を構えたという。
鎌倉幕府最後の御所 「若宮大路幕府御所」 (鎌倉市・小町)
若宮大路
大蔵御所の後11年間幕府が置かれた宇都宮辻子御所跡
宇都宮辻

仁治元年(1240)正月、連署の北条時房没すると、以降泰時は連署を置く事は無かった。  泰時の自信のほどを窺うことが出来ます。

*泰時の死

しかし同年三月、泰時自身も身罷った。  法名観阿(kana) 60歳   かつて頼朝の死を書かなかった 「吾妻鑑」 は、この時も泰時の死をは書かなかった。  京都在住の平 経高(tunetaka)の 「平戸記」 (heikoki)によると、五日ほど前から発作を起こしており、死の当日にはかなりの高熱を発し、何人も寄せ付けず。辛苦悩乱して、そのまま絶えたと記されている。・・・・・・
直後、京都では泰時の死は後鳥羽上皇の怨霊云々という事が、公家たちの間で囁かれたそうだ。 そして鎌倉でも、死に臨んで出家した泰時に殉じて、御家人たち50人ほどが出家した。 名越朝時だけは出家せずにいたそうです。  事情は判然としないが、泰時の死の前後、名越流北条氏をめぐって、何事か、「吾妻鑑」も書かなかった事実が隠されている。
泰時の墓は粟船御堂、今の常楽寺にある。  次回に続く

丁酉・癸卯・癸未
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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