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鎌倉北条氏

2017.03.01(09:12) 40

**幕政改革

*お金の話

この時期の公卿にとって 「天下」 とは京都とその周辺の事である。  そして 「銭」 とは、平清盛が中国南宋から大量に輸入した宋銭の事である。  
京都や畿内で、身分の高きも低きも、皆が宋銭を欲しがるようになったというのであり、畿内近国で貨幣経済が始まったという事です。
もちろん東国では、まだ物々交換でした、だから源平合戦は、貨幣経済を主張する平家=畿内と、これに反対する源氏=東国との戦いだったという一面を持っている。
貨幣経済反対の源氏が勝ったのだから、源氏将軍三代のころは、まだ貨幣は東国に普及はしなかった。 しかし貨幣は便利である。
こうして貨幣経済という荒波は次第に東国に迫ってきた。 これが鎌倉を通過したのは、執権泰時の時期だったらしい。・・・
一方、平安末期から、様々な形で農業技術の進歩が見られた。 役畜の飼育、品種の改良の他、重要だったのは、鉄製農具の普及であった。

このような動きは、宋銭の普及と相まって、世の中を大きく変化させた。 年貢の銭納化、金融業者の発生、運送業の成立、等の発達です。
何よりも京都大番役、鎌倉番役、などを勤仕する為、貨幣の必要に迫られた御家人の中には、所領を質草にして失う無足化が目立つようになる。この他の社会不安の増大と相まって、山賊、海賊などから、やがて悪党も動き出す。

泰時十八年間の施政の末期は、手工業規制、銭貨禁令、惣領と庶氏の同格令、そして悪党禁令などが頻発され始めた時期と一致する。  世の中は、大きく変わりつつあったのである。  「鎌倉中」 ・末期の社会変動と評価する研究者もある。

*北条経時・執権となる

この社会変動に幕府が直面せざるを得なかった時、執権の座に着いたのが北条経時(tunetoki)です。(第四代執権)
仁治三年(1242)6月泰時の死後を継いで幕府執権に就任したとき、経時は十九歳だった。 すでに左近大夫将監でしたが、翌年には大仏(北条)朝直(tomonao)を武蔵守から遠江守に移して、自ら武蔵守に就任。

執権就任から八か月後の寛元元年(1243)二月、13人の評定衆を三番(班)に分け、番ごとの出勤日を定め効率を良くしている。 これまで10人以上の評定衆全員が一堂に会しての評議だったのを、三番に分けたのだから、その能率の良さは数段上がった。評定日も前もって判っているわけだから、欠席や流会もほとんどなく、会議や訴訟は迅速化した。

幕府第五代執権・北条時頼創建 「臨済宗・建長寺」 山門と見事な桜
建長寺三門・サクラ
建長寺‣サクラ
訴論沙汰日結審制と裁許状作成事務の合理化とによって、泰時の晩年以来懸案となっていた訴訟関係の渋滞を、経時は一挙に解決しようとしたのである。
訴論沙汰日結番制は、やがて、北条時頼によって引付衆(hiitukesiyuu)の設置という形で継承される。 また再審越訴制(otuso)はのちに北条時宗が越訴奉行を創設する事につながる。

このように見ると経時の政治は、まさに 「幕政改革の開始」 と見ることが出来る。 その政治は、武都鎌倉の市制にも及んだが、経時が手を焼いたは、将軍九条頼経(yoritune)の問題でした。

わずか二歳で四代将軍に就いた頼経(yoritune)も、既に27歳になっていた、北条氏の庶家・名越光時(mitutoki)・時章(tokiaki)兄弟や三浦氏の庶家の三浦光村(mitumura)や側近集団を擁して、北条得宗家に対する対抗勢力の観を成していた。    次回に続く

丁酉・甲辰・丁亥
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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