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鎌倉北条氏

2017.03.11(18:01) 41

**幕政改革

*将軍の改替

対抗勢力が目的とするとするものは、もちろん将軍権力の強化だった。  つまり反執権政治という事であり、具体的には得宗家打倒という事だ。

寛元二年四月、頼経の子6歳の頼嗣(yoritugu)の元服の式が行われると、突然、頼経本人の発意という形で、将軍職の頼嗣への譲与という事が披露された。 もちろん経時の内々の強要があったことは、疑いもない。

次に、追いかけるように経時の次の手が打たれた。  妹檜皮姫(hiwadahime)と新将軍・九条頼嗣(yoritugu)との結婚である。
新郎は7歳、新婦は16歳です。  経時は、得宗被官たちに厳重に警固させたうえで、密々の内に強行したのです、これは北条得宗家にとって、大きな勝利であった。

かつて四代将軍頼経は、二代頼家(yoriie)の姫、竹ノ御所を妻にしていた。  つまり北条政子の孫娘の婿という事で、北条氏とは血縁関係があった。 ところが竹ノ御所が32歳で亡くなると、得宗家は将軍との血縁関係を、持たないことになっていたのです。
そして今経時は、妹檜皮姫(hiwadahime)を新将軍の許の送り込むことによって、五代将軍の義兄という立場を維持したのである。 まさに大勝利である。

*前将軍頼経(yoritune)の存在

しかし、経時(tunetoki)の勝利もそこまでであった。前将軍となった頼経は、 「大殿」 と称して一定の権威を持ったまま、鎌倉を離れなかったのです。 もちろん側近集団も、以前のように頼経を支持して、相変わらず反得宗の姿勢を崩さなかった。

こうして前将軍派と執権側とが対立している中、経時夫妻が病気になったのです。 病状は一進一退を繰り返したが、まず経時室が死んだ。二十五歳  「吾妻鑑は十五歳の記述」。の若さ である。下野国の豪族、宇都宮泰綱(yasutuna)の娘だった。
その半年後、経時の病状が悪化した。 執権館で、「神秘の御沙汰」が開かれたました。後に寄合衆(yoriaisixyuu)と呼ばれることになるが、北条一門の主だった少数のみの秘密会議である。 この時のメンバーは明らかではありませんが、次の執権について話し合われたのでしょう。・・・
この「寄合」で得宗家の家督と執権職とは、弟の時頼(tokiyori)が嗣立すると、その場で決定したようだ。
経時の二人の息子はまだ幼く、前将軍派と対決するには時頼が相応しいと判断されたのでしょう。  経時は出家して蓮華寺殿安楽禅門と法名し、身罷った。 二十三歳。 「吾妻鑑は三十三歳」記述。  笹目山麓に葬られたが、現在は光明寺に墳墓はある。
それにしても若い経時夫妻の相次いでの死には、何かを感じさせるものがある。 経時は武道に優れたスポーツマンであったようだし、何かの陰謀があったのかもしれません。 いずれにしても経時は、死因にしても、墓所にしてもとにかく謎の人物である。彼の執権在任は、四年間でしかなかった。
鎌倉幕府・重要御家人比企能員邸跡・・日蓮宗・妙本寺境内
妙本寺・二天門
妙本寺・祖師堂
妙本寺・日蓮像

次回に続く

丁酉・甲辰・丁酉
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