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鎌倉北条氏

2017.03.15(09:01) 43

**得宗専制の確立

*北条時頼の執権就任と名越氏の反発

北条時頼が得宗家を嗣立して、幕府執権に就任したことは、名越流(nagoeriyuu)北条光時(mitutoki)の強い反感を招いたらしい。  光時は名越流こそが、北条氏の本流・惣領家だと信じていたからである。 その様な光時の考えも、必ずしも故の無い事ではありませんでした。
義時の後を嗣立した泰時の生母阿波局(awanotubone)は、実家も不明で、義時の正妻だった否かも不明である。 だから泰時自身も、家督を嗣立するに際して、若干の躊躇があったことは先述した。

それに反して義時の次男だった名越朝時(tomotoki)の生母姫ノ前(himenomae)は、武蔵国の大豪族比企朝宗(tomomune)の娘で、れっきとした義時の正妻でした。  そして、時政の鎌倉での住まいだった名越館を、時政ー義時ー朝時という順で伝領してきている。 その様な継承で、本来名越流が北条一門の嫡流という意識が光時の中に有ったと思われます。
幕府執権邸跡・現宝戒寺の三つ鱗紋
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前将軍頼嗣派には、この名越光時を筆頭にして、頼経の近侍藤原定員(sadakazu)・定範(sadanori)父子や、後藤基綱(motutuna)、狩野為佐(tamesuke)千葉秀胤(hidetane)などの評定衆に、問注所執事の三善康持(yasumoti)らの名があります。

当然の事ながら、すでに時頼は事態を察知しており、完全武装の兵士が鎌倉中を巡廻警備し、明け方まで続いた。 このような事が数日間続き、そして近国の御家人たちまで馳せ集まってきて、鎌倉中を馳せ違い、駆け抜けた。

北条時頼(tokiyori)の母松下禅尼の兄・安達義景(yosikage)の甘縄館の周辺でも同じようなことが起こった。  いずれの騒動も、時頼方が前将軍派に対して、威嚇の行動を行ったものと思われます。 時頼方の兵力を見せつける心理的な作戦であろう。

*宮騒動(miyasoudou)

寛元四年(1246)5月、名越光時が前将軍頼経館に入ったのを見届けると、突如、渋谷一族などの得宗被官軍に頼経館を包囲させ、外部との連絡を遮断した。  表面的には、前将軍に対する謀反のようだった。  事実、時頼のとった行動は、まさに謀反以外ではなかった。   しかし、時頼には、立派な口実があったのです。
「我が庶族の名越光時、我に逆臣を抱く事、既に露見セり。  我北条一門の惣領として、光時の野心を抑えんとす」   
決して前将軍に対する謀反ではないと、したのである。
一夜が明けると、すでに前将軍派の劣勢は明らかになり、頼経の側近藤原定員(sadakazu)が頼経館を出て、時頼館に向かおうとしたが、時頼側近の被官たちが、厳重に押し留めた。  この時頼の厳しい態度で、決着がついた。
名越光時、時幸(tokiyuki)兄弟は出家して、降伏した。  頼経の近侍藤原定員は、安達義景の預り囚人(mesiyuudo)となる。

翌日、時頼館では時頼と北条一門の元老政村(masamura)(常盤)・金沢実時(sanetoki)・叔父の安達義景の四人が、何を話し合ったは不明だが、前将軍の背後にいた三浦泰村(yasumura)の動きが気になっていたことは間違いない。  並行して三浦泰村が弟の家村(iemura)を使者として、時頼館に差し向けた。 しかし、時頼は家村に逢わなかった。被官の諏訪盛重(morisige)を介して交渉したようだ。  強硬的な態度を示す事によって、三浦党との交渉を有利に進め和睦を図ったのである。
北条一門金沢実時・墓所 (横浜市金沢区六浦・真言律宗・称名寺)
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次回に続く

丁酉・甲辰・辛丑
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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