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鎌倉北条氏

2017.03.19(07:44) 44

**得宗専制の確立

*前将軍・頼経派の追放

三浦泰村が戦わないと見極めた時頼は、頼経派を次々に処分していった。  後藤基綱、狩野為佐、千葉秀胤は、評定衆を罷免された。 町野康持(yasumoti)は、評定衆、問注所執事の両職を罷免された。 また、名越光時は伊豆江間郡に流された。 やがて前将軍九条頼経は鎌倉を追放、京に戻っていった。
幕府・門柱所石塔 (鎌倉市・御成町)
問注所石塔
この事件は、宮騒動あるいは名越氏事件、また寛元ノ乱ともいう。 いずれにしても兄経時が手を焼いた九条頼経を、執権就任後わずか百日余りの時頼が、京都に追放したのである。 ときに時頼は弱冠ニ十歳だったという。
いままで反抗的だった名越氏を懲罰した事で、一門庶家に対する得宗の支配権が確立した。 大族の三浦氏が屈服したことが示すように、御家人社会における北条氏の指導的地位も強固なものになったのです。

しかし、時頼のとった戦術が心理的なもので、本当に三浦氏が屈服し、時頼の勝利に疑問を抱く者もいた。 はたして泰村の弟光村(mitumura)はかつて公暁(kugixyou)の弟子だった駒若丸である。

*公暁・・・・・三代将軍源実朝を八幡宮での右大臣拝賀の日に暗殺した、八幡宮寺・別当

前将軍九条頼経が鎌倉から追放されたとき、三浦光村は京都まで追従しています。 六波羅で頼経と別れるときに 「構えて今一度、鎌倉中に迎え奉らんと欲す」と語ったという。
この状況で、時頼は三浦泰村(yasumura)に相談し、現在京都六波羅探題北方である極楽寺流北条重時(sigetoki)を鎌倉に呼び寄せ「連署」にしたいと持ち掛けたが、泰村は即座に拒絶したという。 そのはずでこの人事は政治力の強化と同時に、軍事力の増強をも狙ったものであるからだ。
これで重時の連署就任は、実現しなかった。 宮騒動では勝利したものの、三浦党は時頼でも無視できない存在だったのである。
しかし、時頼にとって三浦党は危険な存在だったかは疑問が残る、そうであれば、北条重時の連署就任人事等を相談したりするだろうか・・・・。


*連署・・・・・・鎌倉幕府の職名。執権の補佐役。北条氏一門が就任し、幕府の発給する文書に執権と共に署判する。

次に時頼が打った手は、北条氏歴代のお家芸あるいは常套手段ともいうべきもので、敵中に味方を造るか、或は見方を送り込むものである。 いま時頼が目を付けたのは、佐原流三浦盛時(moritoki)だった。 時頼の父時氏(tokiuji)を生んだ泰時の先妻矢部尼(yabeni)は、泰時と離婚した後、佐原流三浦盛連(moritura)に再嫁して生んだのが、盛時兄弟だった。 このような血縁関係もあって、時頼が差し伸べたスカウトの手に、盛時は乗ってきた。
その年の暮れ、盛時は時頼に臣従して得宗被官となり、時頼から得宗領陸奥国糠部郡五戸郷(nukanobu・gonohe)の地頭代に補任されたのである。

この段階まで三浦泰村は、この様な世情の動揺が自分に関係しているとは、思っていなかったのでしょう。  泰村がそれに気が付いたのは、出家して覚智入道(kakuti)となっていた安達景盛(kagemori)が、高野山を下山して鎌倉に戻ってくると、早々に時頼館を訪れ、満座の御家人たちの前で、子の義景(yosikage)孫の泰盛(yasumori)を叱ったのである。
「三浦の一党、今部門に秀で、傍若無人なり。 やがては、景盛等が子孫に危機が及ばんなり、もっと思慮を回らすべきところ、義景といい泰盛と云い、危機感が足りないうえ武備もないのは、奇怪である」   つまりは三浦党の打倒を、景盛は説いたのである。  
ところが直後、時頼の使者が三浦館を訪れ、泰村の次男で九歳だった駒石丸を、養子に欲しいと言ってきたのである。こういう申し入れをするからには、時頼に三浦氏打倒の意図などある筈がない。泰村が快諾したのは、もちろんである。 

このような申し入れは時頼が 「和平」 を装う謀略という意見もあるが、この時点で三浦泰村も執権時頼も全く戦う意思など無かったのでは無かろうか。 どの様な事かと言えば、生母・松下禅尼の父安達景盛が、大族・三浦一族の兵力の台頭を怖れた、安達氏と三浦氏の権力闘争だったと云う見方が正しかったのではなかろうか、時頼はこの流れに乗ってしまっただけなのだ。 しかし、二人の思惑とは別の流れが動き出し始めたのです。

いよいよ、将軍御所と時頼館の防備が、厳重になされた。武蔵・相模・伊豆・駿河などの得宗被官が、時頼館の四面を防備した。また泰村館との境にある筋替橋際には、防壁として雑役の車が横倒しにされた。これに対応して、泰村館でも軍備が整えられた。一触即発の緊迫した雰囲気が、鎌倉中を覆った。
筋替橋・石塔  (鎌倉市・雪ノ下)
筋替橋跡

次回に続く

丁酉・甲辰・乙巳
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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