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鎌倉北条氏

2017.03.27(08:30) 46

**幕政の転換

*評定衆メンバーの変化

乱(合戦)のあと、五代将軍九条頼嗣(yoritugu)の御所での役職者も、乱直後に、大きく変えられた。
三浦氏とその与党の面々、多く戦死して、その欠を生じたるが故なり。 と、公式に発表された。  しかし、新加の家を精選したのが小侍所別当の金沢実時(sanetoki)だったので、将軍近侍の諸役を北条方の諸家で固められたという事だった。
宝治合戦で妻の実家・三浦氏に付き頼朝法華堂で自刃大江広元四男・季光の墓(雪ノ下)
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*小侍所別当・・・・・幕府の機関。御家人が将軍に近侍する宿直や供奉を管轄する長官。

鶴岡八幡宮の別当も、定親から隆弁(riyuben)に替えられた。  さらに京都でも久我通光(kuga・mititeru)(公卿)が、太政大臣を辞任している。 久我通光・定親は土御門道親(mititika)の子で、三浦泰村室の兄弟だったのである。

宝治合戦から1か月ほどたったころ、京都から帰ってきた極楽寺流北条重時sigetoki)が、幕府連署に就任。  彼が住んだのは、若宮大路東側の北端だった。いずれにしても三浦泰村の意向を配慮しなくても良くなっていた。


評定衆のメンバーや北条一門の占める割合なども、大きく変化した。  寛元四年の宮騒動の前は、評定衆の総数は21人だったが、騒動後に、後藤基綱(mototuna)・狩野為佐(tamesuke)・千葉秀胤(hidetane)・町野康持(yasumoti)の四人が罷免されて、総数は17人になった。
そのうち北条一門は、北条政村(masamura)・朝直(tomonao)(大仏)・資時(suketoki)(時房・三男)の3人で、騒動後も人数は減らず変化はなかった。

時頼の意向が、評定衆を通じて強く幕政に反映される様になり、その時頼の意向を決定するのに大きく貢献したのが、寄合衆(yoriaisiyuu)だった。
かつて畠山重忠討伐の事件では、北条時政・義時・時房の三人が、会議を開いている。  その家族会議が、その後、「神秘の御沙汰」と云う、謎めいた秘密の会になり、やがては寄合衆という形に発展してゆく。
その「寄合」 と云う言葉が「吾妻鑑」に初見されるのが、宮騒動後の寛元四年(1246)6月10日条だった。

*北条氏専制の確立

いずれにしても、宝治合戦が終わると、幕閣の様相は大きく変化していた。  すべての要職は北条氏に抑えられており、時頼に楯突く状況ではなくなっていた。この様な状況の下で時頼は幕政改革に乗り出したのです。 幕政改革は既に兄経時が始めた事であったが、時頼が最初に手を付けたのは意外な方向であった。 宝治合戦終戦二か月後、時頼は曹洞禅の開祖・道元(dougen)を鎌倉に招いたのです。
世上の目は、白衣舎(biyakuesiya)に集まった。  道元が三浦泰村室の兄であることも、関心が生じた一因だったかも知れない。 しかし大きかったのは、時の権力者時頼が、道元の曹洞禅を受容するか否かだった。

*白衣舎・・・・・・・・道元が鎌倉で住居した館名、 現在の名越辺りを比定。

ちなみに、九世紀中葉、比叡山延暦寺(山門)から園城寺(onjiyouji)(三井寺・寺門)が自立すると、山門と寺門との間で、対立抗争が展開されるようになる。 源氏と平氏間の抗争では、山門は平家側、寺門は源氏方だった。
必然的に鎌倉幕府の宗教は、寺門派という事になった。 幕府立の官寺である鶴岡八幡宮寺の別当は、鎌倉時代十七代のうち、10人までは寺門出身だった。 同宮寺・二十五坊の初代供僧は、寺門出身が15人、東寺出身が6人、そして山門出身はわずか4人だった。  それも着任はかなり遅れたという。
5代執権・北条時頼創建 鎌倉五山第一位、臨済宗・建長寺山門
建長寺・山門
このような時に、時頼が曹洞禅の道元に傾倒しているかに見えたのである。 世上がこれに注目したのも、当然であった。 しかも時頼は、やがて道元から菩薩戒(bosatukai)を受けたのである。 世上はどよめんばかりであった。 しかし時頼の道元への傾倒も、そこまでだった。ただただ、只管打坐(sikandaza)を説くだけの道元は、まだ若かった時頼には合わなかったらしい。鎌倉滞在約半年道元は鎌倉を去った。

*只管打坐・・・・・ただひたすらに座禅をすること。       次回に続く

丁酉・甲辰・癸丑
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