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鎌倉北条氏

2017.03.31(07:00) 47

**幕政の転換

*蘭渓道隆(rankei・douriyuu)の活動

時頼が道元に帰依しなかったのは、同じころ、蘭渓道隆が鎌倉にいたからだったかも知れない。 蘭渓道隆は、中国南宋の禅僧だった。寛元四年に来日して暫く博多に滞在した。  その後上洛して、泉涌寺の来迎院に寄寓した。この時時頼に招かれたのである。
鎌倉に入った道隆は、暫く寿福寺に滞在。  しかし宝治元年寿福寺が全焼した後しばらくどこにいたかは不明であったが、その後時頼は道隆を大船郷の常楽寺の住持に任じた。
臨済宗・粟舩山常楽寺三門(鎌倉市・大船)
常楽寺・山門
常楽禅寺

直後、時頼は同寺に梵鐘を寄進した。 後に建長寺・円覚寺の梵鐘と合わせて「鎌倉三名鐘」と謳われる。

そして建長元年(1249)小袋坂の地獄谷で整地の工事が始まった。刑場であった谷間を平坦にして刑死人の地蔵堂を移転した。建長寺造営の為だった。建長寺が落成したのは建長五年11月、巨福山建長興国禅寺である。  本尊は地蔵菩薩、開基は時頼、そして開山は蘭渓道隆である。

鎌倉幕府にとっての宗教改革は、これで完了した。  幕府の宗教は、専修臨済禅と決まったのである。 日蓮や一遍の登場は、遅すぎたのです。

建長寺には、いくつか注目すべき点がある。  最澄(saitiyou)が延暦四年に建立した延暦寺、藤原義房が貞観四年に命名した貞観寺、建仁二年に源頼家(鎌倉・二代将軍)が着工を命じた建仁寺などと共に、元号を寺名とする数少ない寺院の一つという事です。

また建長興国禅寺の「興国」の二文字に、強烈な国家意識が感じられる。文歴元年(1234)以来、蒙古と国境を接するようになった南宋では、強い国家意識が育っていたが、これが道隆を通じて日本にもたらされていたと、観ることができる。
建長寺・三解脱門に「建長興国禅寺」の文字が見える。
建長寺三門・サクラ

*御家人の窮乏

中小の御家人の中には、所領所職などを質入れして失い、所領を持たない無足の御家人もあらわれている。 ある国の御家人は、次のように記しています。 「当国の御家人、もと30余人。今、わずかに残るところ14人なり」  軍事政権としての鎌倉幕府は、まことに由々しき事態に直面していました。  次回に続く

丁酉・甲辰・丁巳



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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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