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鎌倉北条氏

2017.04.04(07:30) 48

**幕政の転換

*御家人の負担軽減

因みに鎌倉武士の社会では、毎年八月一日には、「八朔」(hatusaku)と称して相互に贈り物をやり取りし、御家人から将軍に対しても贈り物をする習慣があったようだ。 それが宝治合戦後に禁止された。 しかし、将軍に対する贈り物は執権だけがすることになった様だ。これは御家人救済の一策であったと思われます。

その後、京都大番役の期間が半減する措置が取られた。  かつて平清盛が三年間とした役、頼朝が半年間としたものを、更に時頼は三か月に短縮した。  同時に時頼は、大番役を勤仕する御家人たちを、23番(班)に編成した。 この措置の効果は、極めて大きかった。個々の御家人にしてみれば、5年9か月ごとに三か月の勤番という事になり、その負担は、格段の軽減になった筈である。

同じ時期に、将軍御所の新築移転という事が、幕閣で討議されたが、沙汰闇になったという、御家人たちに負担をかけまいという配慮が、根底にあったと思われます。  さらに寒中の的調が中止された。

*寒中的調・・・・・正月に行われた弓技大会。

しかし時頼の施政は、御家人たちを甘やかすだけのものではなかった。  将軍近侍の御家人の6番(班)編成の名簿が発表された中で、諸人が目を引いたのは、末尾に記された次のような通達でした。  「故なき不参が三度に及べば、罪科たるべし」と通達であった。

鎌倉の市制についても、時頼は配慮を払っていた。  宝治合戦直後に、鎌倉中の各保の奉行人に命じて、各保に流入している浮浪人を退去させたのは、その一例である。  ”鎌倉に行けば、何とかなる” とばかりに、鎌倉に流入してくるものが多かったのである。
次いで、鎌倉中の至る所にあった小町屋(商店街)が、次の7ヵ所に限定された。

*限定商店街・・・・・  大町・小町・米町・亀ヶ谷ノ辻・和賀江・大倉ノ辻・気和飛坂山上(化粧坂上)の7ヵ所

続いて、鎌倉中の諸小路に軒を差し出す事を禁じ、道幅を狭くしないようにと、下知された。また公定価格なども定められたが、この政策はどうやら失敗に終わったらしい。

鎌倉中・大町八雲神社
八雲神社・大町
鎌倉中・大町と小町の境・夷堂橋・石塔
夷堂橋・石塔

*北条時頼の撫民政策

農民に対する施策も、時頼は忘れていなかった。  その基本は撫民だった。
地頭が全権力を握っている地であっても、名主の主張に理があれば、その訴訟を受理したのです。  さらに、諸国の守護・地頭に対して、過分な年貢の取り立てを禁止する指令を出している。

*撫民政策・・・・・農民に対する融和政策     

次回に続く

丁酉・乙巳・辛酉
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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