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鎌倉北条氏

2017.04.08(09:00) 49

**幕政の転換

*引付衆の創設

農民政策の次に時頼は幕府組織の充実を考えていました。  引付衆(hikitusixyuu)の創設です。
建長元年(1249)、15人の評定衆の内から、北条一門の三人を選んで、三番編成の引付衆の各頭人に任じた。 まず泰時の四弟北条政村(masamura)、時房の四男・大仏朝直(tomonao)、時房の三男・資時(suketoki)である。
その後、二階堂、大曾根、小弐など官僚クラスの御家人から引付衆を選抜任命して、各頭人の下に配属させた。
各番の引付衆は頭人の下で会議を開き、担当案件に関する結論の原案を作成すると、それを頭人が評定衆会議に提出するのである。訴訟などの迅速化が、計られた。

*時頼の子孫

宝治合戦は、時頼の私生活にも一つの転換を迫った。  時頼は十三歳で毛利季光の娘を妻に迎えている。 ところが九年後の宝治合戦に、季光は三浦側に付き戦死しています。 事実上、時頼は妻の父を攻め殺した事になります。正確な処は判りませんが、離縁になったようだ。
その後、時頼に長男が生まれた。  幼名宝寿丸(houjiyumaru)。後の時輔(tokisuke)である。 生母は「時頼の妾」で、三河局と呼ばれた。幕府の女官だったらしい、正確な記録が無い。
何れにしても宝寿丸はあまり歓迎されなかったらしい。  乳人(menoto)に任命された諏訪盛重(morisige)が、固く辞退しているからである。


これと正反対だったのが、次男・正寿丸(siyoujiyumaru)・後の時宗(tokimune)です。  生母は時頼の正室で、連署の重時(sigetoki)・(極楽寺)の娘だったからであろう。 続いて正室は、福寿丸(fukujiyumaru)・後の宗政(munemasa)を生んでいる。
何れにしても時頼は、庶腹の時輔(tokisuke)には苛酷で、正室が生んだ時宗(tokimune)・宗政(munemasa)を偏愛した。 時宗が生まれる前に時輔は三男とされ、生母と共に時頼の小町館(現・宝戒寺)から追却されています。 そして時宗・宗政の為には、二人の幼名にちなんで、聖福寺までが建てられている。

*先日 4月4日時宗公の毎歳忌(円覚寺・仏日庵)に参拝してきました。  天候に恵まれ気持ちの良い半日でした。

 *北条時宗公菩提寺仏日庵DSCN2874.jpg
毎歳忌に参列された御家人たち  (許可なしにupしましたお許しを)
DSCN2871.jpg
カイドウが咲き始めました  (鎌倉市・臨済宗海蔵寺)DSCN2882.jpg

次回に続く

丁酉・乙巳・乙丑
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