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執権・北条泰時

2016.10.10(21:58) 5

これまでの記事で、鎌倉時代・都市・町のの成立を大まかに記述してきました、これからは筆者の興味の向くまま一貫性のない歴史解釈をできる限り脱線しないように、進めたいと考えています。
北条泰時公菩提寺・常楽寺(鎌倉市・大船)
常楽寺・山門
泰時公・墳墓
北条泰時墓



*鎌倉幕府最強の政治家

貞応三年(1224)六月、執権・北条義時が急死し、承久の乱以来六波羅に駐在していた子息泰時は直ちに鎌倉に下向し、執権に就任した

泰時の母は義時の正妻ではない。 安房の局と呼ばれる官女であったが、その出自はわからない、義時には前後二人の正妻がいた。はじめの正妻は比企朝宗の娘で姫前(himenomae)であった、二人の間にと朝時・重時(極楽寺)が生まれたが、比企の乱で比企一族が滅びたことにより、二人は離別した。
義時は間もなく伊賀朝光の娘と再婚し、政村(常盤)・実泰(金沢)をもうけた。・・・・・泰時の名はまだ出てこない。
義時の死後、一条実雅を将軍に頂き、政村を執権とする動きがあった。  伊賀氏の娘婿を将軍に立て、実子を執権とする計画であった。
しかし、尼将軍政子はこの計画を粉砕し、三浦義村が政村を支持する動きを牽制し、泰時を強力に支持した。

政子が三寅(九条頼経)を抱いて泰時邸に入り、重臣たちをそこに召し寄せることによって、事は決した。  泰時の執権就任を強力に支持した政子であるが、一年後の嘉禄元年(1225)七月に享年69歳で亡くなった。
政子と共に泰時を支持してきた大江広元も政子に先んじて78歳で亡くなっていた。  政子の危篤により京・六波羅から東下していた時房(泰時・叔父)の帰洛をとどめて、執権の職務を補佐させることにした。
執権泰時を補佐する時房の役職は、下知状等に執権に並んで署判を加えることから「連署」と呼ばれるようになるが、執権と連署は基本的には同格であり、両者を合わせて「両執権」とよぶこともある。


*北条時房・・・・父・北条時政、政子・異母兄・・・・・泰時の叔父

嘉禄元年(1225)j十二月、執権・連署と共に幕府の政務や訴訟にあたる評定衆11人が選ばれ、最初の評定が行われた。 また将軍御所の勤番制が復活、鎌倉番役と云われ、 この勤番は東国の御家人に、所領高によって勤番期間が割り当てられ、将軍御所の警備に当たった。

*評定衆・・・中原師員(morokazu)・三浦義村・二階堂行村・中条家長・三善康俊・二階堂行盛・三善倫重(norisige)・後藤基綱・三善康蓮(yasutura)・佐藤業時(naritoki)・斎藤長定、  以上11名

泰時・時房は幕府の求心力を高めるために、実朝の後継者として鎌倉に招いていた三寅を正式に鎌倉殿として推戴することを考えていた。  すでに八歳となっていた三寅は鎌倉・宇津宮辻子(utunomiyazusi)に新造された御所に移り元服して「頼経」を名乗り、嘉禄二年・正月、正五位下・右近衛少将に叙任され、征夷大将軍に補せられた。同時に鎌倉幕府第四代将軍となる。    摂関家将軍の誕生である。

平成二十八年・丙申・己亥・戊辰
         (続)
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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