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鎌倉北条氏

2017.04.16(07:03) 51

**全盛時代の到来

*元寇がもたらしたもの

文永五年(1268)正月、元の国書を携えた潘阜(hanfu)が博多に到着した。
太宰小弐(dazaisiyouni)と鎮西奉行を兼ねた小弐資能(sukeyosi)は、国書を鎌倉に転送しました。  国書を受け取った幕府は評定を開いて議論し、使者を上洛させ、朝廷の判断を仰ぐことにしました。
亀山院の評定は結論を出せませんでした。 その中で、近衛基平(motohira)・(公卿)等が返牒に及ばずと強硬に主張したと伝えられる。

*小弐資能(siyouni・sukeyosi)・・・・・・北九州の御家人

結局、朝廷は国書に対して回答しないことを決定し、幕府はこの決定を受けて、讃岐国など西国の守護に対して警戒態勢を取る様に通達した。

要領を得ない対応をされた藩阜は、帰国して日本は意思決定できないでいると報告されました。  元(genn)の皇帝は日本の煮え切らない態度に苛立ち、日本が元と南宋との対立に関与しないように再度、使者を派遣することを決定した。

元の国書が到来したことに危機を感じた鎌倉幕府は、文永五年(1268)三月、執権・北条政村と連署・北条時宗(tokimune)・(十八歳)を入れ替える異例の人事を行いました。 幕府の職制で、執権は将軍に次ぐ地位にあり、執権を辞めるときは、引退するか、出家をする時でした。 連署への降格は、この北条政村の一例のみです。
北条時宗菩提寺・臨済宗円覚寺派本山・鎌倉五山第二位・円覚寺山門
円覚寺山門
円覚寺・三門
円覚寺三門
円覚寺・正続院禅堂

正続院(禅堂)
鎌倉幕府が組織を挙げて元と戦うためには、北条氏本家の家長が執権として指揮する必要があったのでしょう。


*二月騒動

文永九年(1272)二月、北条氏の本家は、六波羅探題南方・北条時輔(tokisuke)・(時宗異母兄)と分家の名越時章(tokiaki)‣教時(noritoki)兄弟を攻め滅ぼしています。
北条時頼は時宗を嫡子に定めていましたが、時輔の有能なのが知られてくると一族の結束を乱す存在になると考えたのでしょう。また、名越教時が文永三年に前将軍・宗尊親王(munetakasinnnou)を京都に送り返したときに、それを阻止しょうと鎌倉中で威嚇行動を行った事も、本家から監視される要因になりました。 しかし、討伐の対象を名越時章まで広げた事には異論があり、安達泰盛(yasumori)の強硬な批判に遭って名越時章討伐を行った得宗被官が一転して罪人になる悲惨な事件も起きました。
無実とはされたものの、名越時章の肥後国守護職は没収されて安達氏に与えられ、名越氏はこの事件を最後に北条一門の中の反主流という立場を失うことになりました。  これによって、北条時宗主導の鎌倉幕府は総与党体制となったのです。  次回に続く

丁酉・乙巳・癸酉
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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