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鎌倉北条氏

2017.04.20(07:32) 52

**全盛時代の到来

**文永の役

元との戦いに備えた幕府は、九州に領地を持つ御家人に、領地に降って駐留することを命じました。  また、鎮西奉行と大宰府小弐を兼務する小弐資能(sukeyosi)は,現場で戦争の準備を進める重要な立場に立つことになりました

文永の役(1274)で、元は高麗軍を主力とした軍事船団を派遣し、日本の戦法や戦力を調査しました。 この戦争は略奪が目的だったようで、博多の街を荒らして、略奪しただけで引き上げています。  日本軍が元軍を撃退したのか、元軍の戦略が一撃離脱だったのかは、研究者によって判断が分かれるところです。 私は後者と考えます。

この戦闘の後、日本は報復のための異族征伐(高麗遠征)と異国警固の二本立ての戦争計画を立案しました。  北条実政(sanemasa)・(時宗・弟)は、異族征伐の将軍に任命され、大軍を率いて博多に下った。  その後高麗遠征は中止された、肥後国守護代として駐留することになりました。
さらに、元との戦いは朝廷・幕府を合わせての挙国体制を取ることになりました。朝廷は鎮護国家の祈祷を担う権門社寺や諸国一之宮などに異国降伏の祈祷を依頼し、盛大な祈祷を行いました。  鎌倉でも、鶴岡八幡宮を中心に異国降伏の祈祷が行われました。
八幡宮・一の鳥居(鎌倉市・由比ヶ浜)・(向海岸)
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八幡宮・二の鳥居(鎌倉市・雪ノ下)・段葛方面
二の鳥居
八幡宮・三の鳥居(鎌倉市・雪ノ下)
三の鳥居

戦争は日本と元との間の国家間のものとなる為、幕府は朝廷の許可を得て本所一円地住人に対しても軍勢催促を行う権限を獲得しました。  その結果、朝廷と幕府双方の現地担当として書類を取り扱う事の出来る小弐資能(sukeyosi)に仕事が集中していきました。

*本所一円地住人・・・・・(御家人以外の住人)

元との戦争という非常事態の中、幕府は巨大な非常大権を手中に収めたのです。

弘安の役(1282)で辛うじて元軍を退けた鎌倉幕府は、軍事を担当する権門武家として体面を保つことが出来ました。 しかし、その後の政治的な展開を見ると、この勝利が大きな代償を払うものであったことが次第に明らかになっていきます。

**勝利の代償

元との戦いは、終わりなき戦争でした。 日本は文永・弘安の役を守り抜いたものの、元の皇帝は日本遠征の意思を捨ててはいませんでした。 さらに、第三次遠征の準備を進めていました。 そのため幕府も戦時体制を説くことが出来ず、鎮西の御家人と本所一円地住人の異国警固の体制が継続された。 当然、その駐留経費の負担も継続されました。

弘安五年(1282)、執権・北条時宗が蒙古襲来の戦没者供養のため、鎌倉山之内に円覚寺を建立する。 開山は無学祖元(mugaku・sogen)。  翌年に寺領として尾張国富田荘(名古屋市)を寄進し手厚い保護を与えた。(円覚寺文書)

二年後の弘安七年北条時宗が亡くなると、鎌倉幕府は得宗家の外戚安達泰盛(yasumori)と、得宗・北条貞時(adatoki)の乳母夫・平頼綱(yorituna)の対立が顕在化してきた。  この対立は文永九年頃から表面化していましたが、得宗・時宗の求心力と元の外圧によって抑え込まれていました。
時宗の死が、鎌倉幕府の権力闘争に対する歯止めを外すことになったのです。次回に続く

丁酉・乙巳・丁丑
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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