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鎌倉北条氏

2017.04.24(06:56) 53

**強権の代償

**弘安徳政

晩年の時宗がもっとも心を労したのは、妻の兄・安達泰盛の権勢だったかもしれません。  引付衆・評定衆・引付頭人・越訴(otuso)奉行・恩沢(ontaku)奉行から、北条一門に限られていた陸奥守に任じられていた。 弘安六年には一族から評定衆・引付衆ともに二名ずつで、泰盛の子宗景(munekage)は、引付衆を一年足らずで、わずか二十五歳で評定衆に昇格しています。
安達一族の勢力伸長は、そのまま北条一門の勢力後退でした。  時政、義時、泰時、(時氏)、経時、時頼と、歴代が営々として築いてきた北条氏得宗家の勢力が、いまや崩れかかっていた。  弘安四年、それまでの六年間、連署を置かなかった時宗が、極楽寺流北条重時の七男・兼時(kanetoki)を連署に任じた。 ついに疲労を感ずるようになっていたのでしょうか?・・・

北条時宗が亡くなった後、安達泰盛は弘安徳政と呼ばれる新制を発布し、鎌倉幕府を新たな体制に導こうとしました。  元寇を戦った鎮西の人々の保護と、現地に駐留していることの可能な体制の整備、鎮西で戦った本所一円地住人が望む御家人登録の実現など、元との戦争の継続を睨んだいくつかの対策がこれに盛り込まれていた。 しかし、矢継ぎ早に発布される新制が現地を混乱させた事など、改革を急ぎすぎた気配があります。
特に、九州での御家人追加登録は対元対策としては正しいとしても、辛うじて御家人の地位にしがみついている中堅層以下の御家人からの不評を買うことになりました。 「蒙古襲来絵詞」 で有名な竹崎季長(suenaga)を見ればわかるように、鎌倉中期には貧窮した御家人が多く見られました。

安達泰盛は、貧窮する御家人が、実際には土地の売却や質入れ契約なのに、親子の契約を結んで譲与したという書類を作成して権利の移転を行う偽装の親子契約(養子)を禁止しています。(追加法)
一方で、非御家人や一般の人々が相伝(相続)・請所(経営委託)・沽券(購入)・質権(質流れ)と称して関東御領を経営している者が多く、その一覧を提出するよう守護に命じています。

幕府が成立して百年もたつと御家人と関東御公事を賦課された御家人の領地との間にズレが生じてきたのです。 安達泰盛の改革は、方向としては間違っていなかったのですが、元寇の負担を間接的に受ける形になった御家人を置き去りにしたところに問題があったようです。


弘安八年(1285)、十一月の霜月騒動で安達泰盛とその与党を滅ぼした平頼綱(yorituna)(得宗家・内管領)は、御家人の地位保証を第一に行いました。  弘安十年には、祖父母が鎌倉幕府から下文を賜っていれば、知行する土地が無くても御家人としての身分を保証するとの法を定めています。  また異国警固の番役を負担する御家人たちに対しても、小弐経資・大友頼泰・宇都宮通房・渋谷重郷の合議による、訴訟を受理するか否かを判断する鎮西談議所が置かれ、九州で起きた問題については博多で第一段階の判断をする体制を維持しました。

平頼綱は得宗家の家政を運営した能吏だけに、眼前の問題を処理する能力は高く、安達泰盛が指導した体制の良い部分を継承する柔軟性を持っていました。 しかし、頼綱は御家人の疲弊という現状を打破するための政策を打ち出すことが出来ませんでした。 力によって逆らうものを抑えつける強権的な政権運営へと傾斜し、人望を失っていきました。


やがて、得宗・北条貞時(sadatoki)(時宗嫡男)は内管領・平頼綱を更迭し、攻め滅ぼしました。 そして自らが政権を主導する専制体制を築き上げました。  (平禅門の乱)
しかし、霜月騒動と平禅門(heizenmon)の乱で幕府を代表する派閥が共につぶれたため、得宗・貞時は、北条師時(morotoki)・北条宗方(munekata)・北条時村(tokimura)といった一門で人材を埋めるることになりました。  安達泰盛の支持派に見られていた金沢北条氏三代の北条顕時(akitoki)もこの時に復帰しています。

八幡宮・一の鳥居から本殿を望む
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和賀江島から江の島を望む  右・稲村ケ崎
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名越・切通し
名越・切通し
次回に続く

丁酉・乙巳・辛巳
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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