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鎌倉北条氏

2017.05.02(07:43) 55

**滅亡への道

**北条高時と金沢(北条)顕時(akitoki)の政治

正和五年(1316)、鎌倉幕府を主導した最後の得宗となる北条高時が執権に就任しました。  次席の執権である連署(rensiyo)には老練な金沢顕時が留任し、高時の後見には得宗家の宿老・長崎高綱(takatuna)と外戚・安達氏の惣領安達時顕(tokiaki)が付きました。 この四人の協調体制が高時政権の基盤となりました。

北条高時の最大の弱点は病弱だったことで、金沢貞顕(sadaaki)・(顕時・嫡男)の書状から、貞顕と長崎高綱が高時の病状に一喜一憂していることが見てとれる。
この政権は高時に強いリーダーシップを期待出来ないため、前政権・父貞時の政策を先例として踏襲する先例主義で運営していくことを基本としました。そのため、安達泰盛や平頼綱が盛んに新法を発布して実力を示そうとしたのとは対照的に、表面上は現状維持を掲げながら、法令の解釈や運用の上では、実際に行いたい事に合致する先例を探し出して適用する柔軟な手法で政権運営を行いました。  社会の変動に対して、法令の改正ではなく、法令の運用で対応する手法は、無駄な労力を使わない省力的な政権運用でした。


北条高時自身は、暴君ではなく、周囲の人々から愛された虚弱な人でした。  北条高時を暴君としてイメージ付けてしまったのは、後醍醐天皇側の論調で鎌倉末期を記録した「太平記」の喧伝だと考えます。  彼が暴君でないことは、 「金沢文庫古文書」に残る金沢北条氏と称名寺の僧侶たちの書状から明らかです。  しかし、北条高時を中心とした政権の首脳部が鎌倉幕府の衰退を止められなかったのは事実で、組織を潰してしまった責任はあるでしょう。


北条高時政権が処理できなかった問題は、第一に、鎌倉や北条氏を中心とした政権中枢部への富の一極集中が進む中で、時代の変化に対応できない御家人の零落を止められなかった事です。  この事は、鎌倉は空前の繁栄を迎える一方で、冷害の被害を受けやすくなってきた東北地方が陥った内乱状態を解消できなかったことです。 「金沢文庫古文書」 の中にも、金沢貞顕(sadaaki)の従兄弟・顕瑜が知行する陸奥国の年貢滞納が問題となった時に、幕府の政所は政所賦課分を強制的に徴収しようとします。 地方は飢えても、定められた公事は徴収しようとするのが、幕府の官僚機構でした。

陸奥国の疲弊が進む中で、得宗家の有力被官・津軽安藤氏は家の存続をかけた縮小再編の問題で嫡流争いが納まらなくなり、異文化の蝦夷をも巻き込んだ内乱に発展させてしまった。鎌倉幕府は鎮圧軍を派遣して、これを収めましたが、陸奥国の治安の回復までは出来ませんでした。  東北の争乱は、幕府の統治能力の低下を外部に示す結果となりました。

第二の問題は、天皇家の皇位継承問題が泥沼の状態に陥り、それぞれの勢力が鎌倉幕府を味方につけようとした権力抗争に巻き込まれたときに、断固とした判断を下せなかった事です。  京都の政治問題は、本質的には大覚寺統が自分で処理すべき問題であり、持明院統も自力で大覚寺統に対抗する強さを持っていれば、幕府は無関係でいられた問題だった。

北条(金沢)貞顕(sadaaki)菩提寺・金沢・称名寺
山門
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三門
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本堂
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庭園・唐橋
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北条高時政権は、鎌倉幕府の中で大きな政変を起こさずに統治を行ったので、穏やかな政権運営が行われたと考えてよいでしょう。しかし、外部の要因に大きく揺さぶられ、幕府の衰退をを止められなかったことは事実であろう。 次回に続く

丁酉・丙午・乙丑
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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