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鎌倉北条氏

2017.05.06(07:10) 56

**滅亡

**連署・金沢貞顕(sadaaki)執権就任

正中三年(1326)三月、北条高時の病は重篤であると判断され、北条家の首脳部は高時の長子邦時(kunitoki)が家督を継ぐか、高時の弟泰家(yasuie)が家督を継ぐかで内紛が起こり、抗争に発展しました。  (嘉暦騒動)
泰家と邦時では得宗の後見となる外戚・乳母夫が変わるので、どちらが家督を継ぐかによって得宗家の権力構成が変わる為です。  高時の長子・邦時を推す一派は、邦時が成人して執権に就任するまでの中継ぎとして連署・金沢貞顕(sadaaki)の執権就任を求めました。
この一派には、長崎高綱(takatuna)・長崎高光(takamitu)・五大院宗繁(munesige)等の高時政権を支えた能吏や側近が集まっています。北条泰家支持派は、邦時が家督を継ぐと外戚の地位を失う安達氏が中心にいました。
両派の対立は、高時が出家を遂げた正中三年(1326)、三月から表面化しており、金沢貞顕(sadaaki)は高時と共に出家を遂げる考えでした。長崎高綱から若君(邦時)の扶持役を務めるよう依頼され、執権就任を承諾しました。  しかし、三月十六日に十五代執権に就任したものの、泰家支持派から貞顕(sadaaki)暗殺の噂が流れたため、金沢北条氏の滅亡を怖れ、引退を宣言、二十六日に出家してしまいました。

この顛末をみた北条氏一門の人々は次の執権はリスクの高い損な役回りであることに気づき、執権・連署に次ぐ序列にある引付一番頭・赤橋守時(moritoki)が覚悟を決めて就任するまでの一か月間、幕府は執権・連署不在という権力の空白を生じました。

後醍醐天皇の二度目の陰謀計画が露見した元徳三年(1331)四月、鎌倉幕府は日野俊基(tosimoto)・円観(enkan)・文観(bunkan)以下の後醍醐天皇の側近を捕縛し、内乱を未然に防ぎました。  これで収まれば良かったのですが、長崎高綱・高資以下の北条高時側近と長崎高瀬以下の邦時の側近との間で権力抗争が起こりました。  この事件は長崎氏内部の軋轢が根底にあるのですが、幕府が弱体化していることを対外的に示してしまいました。 この内輪もめが後醍醐天皇に立ち直るきっかけを与えることになり、八月の後醍醐天皇の挙兵(元弘の乱)へと繋がります。
後醍醐天皇・側近 日野俊基墓所(鎌倉市・葛原ヶ岡神社)
日野俊基墓所
鎌倉幕府最後の攻防戦場・化粧坂
DSCN2880.jpg
化粧坂切通し
化粧坂切通し~
北条高時の出家によって崩れた幕府の均衡は、最後まで回復する事は無かったのです。
九月、鎌倉幕府は、後醍醐天皇の挙兵を鎮圧するため、大仏貞直(sadanao)・金沢貞冬(sadafuyu)・足利高氏(takauji)などを大将軍とし、長崎高貞を御内御使とした上洛軍を派遣。・・・・・・後醍醐天皇譲位の手続きを取る為の使節として安達高景・二階堂氏を京都に派遣を同時に行っている。

この時の上洛軍は、後醍醐天皇の笠置城や楠木正成(masasige)の赤坂城などの宮方の諸勢力を鎮圧し、後醍醐天皇から光厳天皇(kougon)への譲位も行われ、治安の回復に成功しました。
しかし、楠木正成の二度目の挙兵に始まる第二次内乱は、上洛した幕府軍も連年の遠征に疲労が重なり意気上がらず、正慶二年(1333)、五月に六波羅探題・鎮西探題が相次いで攻め滅ばされました。   幕府最後の戦いは、後醍醐天皇の宮方と幕府との戦いというよりも、後醍醐天皇を擁する反北条氏勢力と北条氏を中心とした幕府首脳部とそれを支持する持明院統諸勢力との戦いとなり、北条氏が力尽きて滅ばされる形になりました。
 次回に続く

丁酉・丙午・癸巳
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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