FC2ブログ

タイトル画像

*「吾妻鑑」*

2017.05.14(15:43) 58

**吾妻鑑とその特徴

**どのような書物か・・・

「吾妻鑑」は鎌倉幕府将軍の年代記という形の歴史書として編纂されたものです。  治承四年(1180)四月九日条の、東国の武士に挙兵を促す以仁王(motihitoou)の令旨(riyouji)が出されたという記事に始まって、文永三年(1266)七月二十日条の、鎌倉を追われた前将軍宗尊(munetaka)親王が京都に戻ったところで終わっている。,

これまでの歴史書と云えば、「古事記」や「日本書紀」に始まって、西国の朝廷中心の歴史を記したもが中心であったが、「吾妻鑑」は東国に生まれた武家政権の歴史を綴っている点が大きな特徴である。そのため鎌倉幕府の動きや東国の情勢を始め、朝幕関係や武士の在り方などを探るうえで基本資料となっています。  

「吾妻鑑」には、武家政権がどの様に形成され、展開されていったのかが記されていることから、多くの関心をもって読まれてきた。 徳川家康が好んで読んだ事は良く知られていますが、同じ関心によるのでしょう。
武家政権は武士たちの日常の動きの中から形成されてきたが、頼朝はその武士たちをまとめて、如何に朝廷から自立した政権を築いていったのか、その腐心した様をそこから窺い知ることが出来き、さらに鎌倉を中心とした東国に生まれた社会や文化の在り方もうかがえる。

また度重なる合戦の記事や幕府の御所でのエピソードは、武士たちが如何に行動してきたのかを雄弁に伝えています。
特に源平合戦や義経の動きについて詳しく記し、続く奥州の藤原氏との合戦についてても詳しい。  これは幕府が武士の集合体であることからして、この点への関心の強さに基づくものだが、これらの記事は合戦の記録を記した右筆(yuusitu)や軍奉行の記録・報告、合戦に従軍した武士たちが軍忠(軍功)を求めての訴えやそこからの聞き取りなどに基づくものと考えられ、信頼度は比較的高いと思われる。
なかでも頼朝が奥州の平泉に進駐したときの記事は、奥州藤原氏を考えるうえで基本となる貴重な資料となっている。

尚、  現代の日本社会につながる習慣や政治の運営の在り方が、実はこの時代に生まれたものであることが、 「吾妻鑑」 の 記述から伺えます。  幕府の政治は、将軍の 「独裁」 に基づく体制から、武士たちの 「談合」 による政治へと大きく転換していったのであり、その点を 「吾妻鑑」 は詳しく記している。  評定、寄合、談合など、御家人たちが整えてきた政治運営の方式は今日の日本の政治の在り方につながっていることが良く判ります。


** 「吾妻鑑」 の記事は、貴族の日記と同じく 「和風漢文」 で記されているので、通読はなかなか難しい。  しかし、有難いことに現代語訳の 「吾妻鑑」 が出版されており、今回の記事はこの書籍を参考にレポートを進めます。

次回に続く          丁酉・丙午・辛丑

**本編・予告**

治承四年(1180)庚子(kanoene)

四月小(siyou)
九日、辛卯(kanoto u)。 入道源三位頼政卿は、平相国禅門清盛を討ち滅ぼそうと兼ねてから準備していた。  しかし、自分一人の力ではとても願いを遂げることは難しいので、この日、子息を伴い、一院(後白河)の第二皇子である以仁王(motihitoou)がお住いの、三条高倉の御所に密かに参上した。 

「源頼朝を始めとする源氏に呼びかけて平氏一族を討ち、天下をお執りになってほしい。」 と申し述べると、王は、藤原宗信(munenobu)に命じて令旨を下された。  そこで在京中の陸奥十郎義盛(源・行家)に 「この令旨を携えて東国に降り、まず頼朝に見せた後、他の源氏に伝えるように、」とよくよく仰せられた。
スポンサーサイト





鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


鎌倉幕府・歴史書 トラックバック(-) | コメント(1) | [EDIT]
<<*「吾妻鑑」* | ホームへ | 鎌倉北条氏>>
コメント
>現代の日本社会につながる習慣や政治の運営の在り方が、実はこの時代に生まれたものであることが、 「吾妻鑑」 の 記述から伺えます。

〇この時代に生まれた習慣があるというのは興味深いですね。東北に残る縄文思想との関連で記事の配信、楽しみにしております。
 草々
【2017/05/15 08:10】 | レインボー #- | [edit]
コメントの投稿













管理者にだけ表示を許可する