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名執権・北条泰時

2016.10.13(14:03) 6

鎌倉幕府三代執権・北条泰時は、名執権であったといわれる、筆者も同感である。・・・・
しかし、祖父・北条時政から三代執権・泰時まで順調に執権職が継承されたわけではない。
初代の時政、石橋山の合戦では一時行方不明になるなど目立った功績を挙げていない、時政がその手腕を発揮するのはその政治的手腕ではなかろうか?。
源行家・義経の離反に対して、頼朝は自ら大軍を率いて上洛して事に当たることに決し、駿河・喜瀬川に至ったが、行家・義経敗戦の報に接し、鎌倉に戻った。  しかし、関東勢は続々と入京し、北条時政も千騎を率いて入洛した。                 時政は権中納言・吉田経房と会談、五幾・山陰・山陽・南海・西海諸国を分譲、荘園・公領の区別なく段五升の徴収権を付与されたと云う。
 (玉葉)
鎌倉・北条氏(三つ鱗‣家紋)
龍のウロコ・三つ鱗>
龍神神社ウロコ(藤沢市・江の島)
龍宮

円覚寺・舎利殿三つ鱗紋瓦(北鎌倉)

円覚寺・舎利殿葺き瓦

後世には、この事件が、幕府の守護・地頭の設置を朝廷が勅許したことと解釈された。
時政以下に諸国荘公の兵糧米徴収と田地知行認められたのは、軍事態勢を展開する用意であった。   このように鎌倉殿の意思を朝廷に伝える代官の役を以て朝廷との交渉を行う重要な立場にあり、朝廷側・九条兼実等との交渉に中ったと思われる。

その後の奥州合戦・頼朝の上洛では大した活躍は無く、生治元年(1199)正月、頼朝が死去、嫡子頼家が二代将軍となる、しかし、頼家が正式に征夷大将軍に任じられるのは建仁二年(1202)のことになる。
北条政子が頼家の訴訟親裁を停止し、北条時政・大江広元ら⁂宿老13人の合議による採決とした。


宿老13  *北条時政・北条義時・大江広元・三善康信・中原親能・三浦義澄・八田知家・和田義盛・比企能員・安達盛長・足立遠元・梶原景時・二階堂行政、以上13名

宿老の筆頭にあるとはいえ、将軍の妻は比企能員の娘でありその権勢拡大を恐れた時政は能員を倒すため頼家の一子一幡を巻き添えにし、さらに頼家をも将軍の地位から追って伊豆・修善寺に幽閉しています。
時政は新たに将軍・実朝を立てたが、大江広元と並んで政所の別当に就任し、幕府の実権を掌握、複数の宿老を代表し「執権」と称した。
後世から見れば、下知状に署判を加える執権の地位を世襲したことが北条氏の権力基盤となったように見えるが、下知状に署判を加える地位が初代の時政からその子義時に順調に引き継がれたわけではない。それは、時政は義時によって追放されたのである、幕府・重鎮の武蔵の守・畠山重忠との争いを「鎌倉に異変あり」と呼びだし、途中万騎の軍勢で待ち伏せ謀殺してしまった。
元久二年(1205)、畠山重忠を滅ぼした事件をめぐって時政は政子・義時らと対立し、時政とその後妻・牧氏は伊豆に追放された。
時政の失脚は、実の子政子・義時によって実行されてしまった。頼朝の舅という立場で、源氏という貴種を100㌫支え、源氏再興を成した功労者は時政であろう、三浦氏・畠山氏の様な強力な軍事力を持たない北条氏にとって将軍の舅という立場を利用し、深謀遠慮の政治力に頼り、力を増したライバル御家人たちを謀略の上、排除してきたのでしょう。
そうした時政の政策に、政子・義時は反発したとおもわれる。
     次回に続く

平成二十八年・丙申・己亥・壬申
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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