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*「吾妻鑑」*

2017.05.26(05:59) 61

**吾妻鑑とその特徴

**東国の幕府 ・ 幕府の東国

鎌倉幕府は治承四年の挙兵時から政治的主張の強い集団だった。  まず以仁王の令旨(riyouji)を利用して東国一帯の支配権を主張していた。  さらに寿永二年(1183)の十月宣旨では東国支配権を獲得している。  これは藤原秀衡の陸奥・出羽両国の支配を併合するもので、 「御舘は奥六郡の主」 「予は東海道惣官」 というのが、当時頼朝の認識であったと思われる。   (吾妻鑑)

*御館(mitati)・・・・・御舘(oyakata)の意。藤原秀衡の事。

頼朝が容易に上洛できなかったのは、奥州藤原氏の脅威があったからだといわれ、頼朝の上洛は藤原氏の滅亡によって実現した。元々幕府の基盤であった関東(東国)は、院政期を通じて京都の政権と奥州世界とのはざまにあった。  その地に源氏の貴種(kisiyu)たちが下向しては、関東の武士団に擁されながら、死闘を繰り返していました。  まさに頼朝もそうした一貴種にすぎなかった。  その中で頼朝が権力を築いていく過程で模範としたのが、清盛であり、奥州藤原氏であったと思われる。 

その後。この二つの権力を征服することによって、それぞれの権力が築いてきた権力・権限を掌中に収め、幕府の権力基盤にしたのです。  藤原氏の所領と平氏の所領を得て、その地に地頭(jitou)をおいて、関東御家人を任じたのはその表れである。


鎌倉幕府の支配領域としての東国の範囲は、頼朝が挙兵して鎌倉に入った段階では、伊豆・相模・武蔵と房総三ヵ国の南関東。 平氏を富士川の合戦で破り、次に常陸の佐竹氏を破って鎌倉に戻った時点で、駿河・常陸・下野を含めてほぼ関東全域にいたった。  (吾妻鑑)

**十月宣旨

それまでは以仁王令旨を根拠に東海・東山・北陸三道の支配権を主張してきた頼朝は、義仲(木曾)が平氏を西に退けた後を受け、朝廷との接触によって、これら三道の支配権を公認させたのである。
その内容は、頼朝の力により東国の荘園・公領を元の様に安堵するというもので、朝廷の支配権を認めつつも別次元の所で東国の支配権を確立したのであった。  (十月宣旨について)

幕府は、限定された固有の領域としての東国に独自の世界を作り上げていきました。  文治元年(1185)、平氏が滅びた時、平氏追討の為派遣した東国の武士が許しを得ずに勝手に任官した事で頼朝は激怒し、無断任官した者の墨俣(尾張・信濃)以東への帰京禁止令を出している。   彼らを 「駘馬の道草喰い」 と罵倒した頼朝は、もしも禁を犯せば断罪に処すとしている。    (吾妻鑑)

**常陸と親鸞

東国と云っても一様ではない。  鎌倉幕府の固有の領域としての東国十五か国の内では、鎌倉とその周辺の駿河・伊豆・相模・武蔵の東海道四ヵ国が東国の中心地を形成しており、さらに周辺諸国の一角に、親鸞の赴いた常陸国がある。
どうも鎌倉時代の常陸は特別な国であったらしい。  親鸞がここに住んだだけではない。 奈良西大寺にあった律宗の忍性(ninsiyou)が最初に下って根拠地としたのがここの三村寺(mimuradera)である。 一遍(itupen)が鎌倉に入る前に布教を試みたのも常陸である。 他にも日蓮宗・禅宗も入り、常陸は鎌倉と並んで新仏教のすべてがそろって盛んな布教を行った土地である。
親鸞が常陸を選んだのは、親鸞の個人的事情もさることながら、政治的条件が大きな意味を持っていた。  陸奥は幕府の直轄地としての色彩が強く、北条氏によって独自の支配が行われており、下総は幕府創設以来の豪族千葉氏の支配が成されていることを考えると、常陸のみが、鎌倉の政権と直結しない独自性を保ち幕府体制から比較的に自由な国となっていた訳である。

さかのぼってみれば、頼朝が挙兵し、鎌倉幕府を樹立する行動に、常陸の人々は乗り遅れた感があります。  常陸・奥郡を勢力範囲とする佐竹氏、國府を中心に治めた常陸平氏等の有力武士団は挙兵に参加しなかった。   この影響は長く続き、幕府成立後常陸国内に地頭が派遣され、あたかも幕府の植民地のような状態に置かれ、在地住人は抑え込まれた。 一方、その分違った発展の方向を目指すことになったのであろう。

元々都から見ても常陸国は、特別な位置にあった。  東海道の果ての地であり、武神として鹿島社が祭られ、王城鎮護の神とされていた。  田積四万町は陸奥国に次いでの大国であり、親王任国とされた。  中・下級貴族はこの常陸の受領(zuriyou)となる事を望んだ様だ。  また流刑の国としても知られ、不遇な貴族が流され、都の文化をもたらした所でもある。

*親王任国・・・・・親王が国守として赴任。(その制度)
*受領・・・・・平安時代・地方行政官筆頭者

東国に生まれた幕府は、北条得宗家を中心とした幕府に変化し、自らを 「公方」 (kubou)と称するようになっていた。  朝廷の独占していた 「公」 を、幕府が公然と名乗るようになったのである。 それは幕府固有の領域・鎌倉において、或は二度の元寇との激戦地九州に於いて、特に主張されるに至った。  (吾妻鑑)

この東国からの新たな自己主張と共に、 「吾妻鑑」 が編纂されされるに至ったと考えられています。  幕府にも自らの歴史を顧みる時代が到来したのである。   しかしながらまだ鎌倉は活力にあふれれいた時代、まさにその様な時に 「吾妻鑑」 が作られたのです。  次回に続く
鎌倉時代初期・刑場址  (鎌倉・山之内)(現・建長寺裏山)
建長寺・刑場址
建長寺・塔頭  回春院      刑場址付近
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建長寺・三解脱門・・・建長興国禅寺
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丁酉・丙午・癸丑
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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