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*「吾妻鑑」*

2017.05.30(07:26) 62

**吾妻鑑が語りたかったこと・・・

**結びつき

令旨と頼朝と時政の結びつきとは、正当性のシンボルと、東国に下ってきた武士の長者の貴種(kisiyu)と東国の豪族的武士の三っの合体に他ならない。 その何れを欠いても、幕府は成立しなかったであろう。 令旨抜きであったならば、すでに頼朝と時政の出会いは存在した。  頼朝抜きでは、東国の源氏に宛てられた令旨の効果はない。  時政抜きでは、頼朝の現実的根拠はない。
この三っの結びつきに、幕府の成立をみた 「吾妻鑑」 の編纂者の見る目は、幕府成立の秘密を良く見抜いているというべきであろう。  だが令旨と頼朝の二つはともかく、他の豪族ではなく、時政がそれらと結びついている点に 「吾妻鑑」 の意図が浮かび上がる。 さらに時政から始めなければならない必然性は無いし、 他の豪族であっても可能性はあったと思われる。  頼朝は挙兵にいったんは成功したが、石橋山で敗れ、以後東国の豪族の許を経廻りながら、鎌倉に入っています。
その豪族とは三浦・千葉・上総・秩父等の諸氏である。  「吾妻鑑」 の記述は、その中で頼朝の器量が認められる事によって、東国の主に成長していったと云う様に描かれているのだが、他の諸豪族のそれぞれにとっても、令旨を携えた頼朝との出会いは重要な意味を持っていたはずである。

〇 吾、源家累代の家人として幸いにも貴種再興の秋(toki)に逢うなり、  (三浦氏)
〇 源家中絶の跡を興せし給ふの条、感涙眼を遮る、言語の及ぶ所に非ず、  (千葉氏)
〇 其の形勢、高峻の相無くんば、直ちに討ち取り平家に献ずべし、殆ど人主の体に叶うなり、これによりて忽ち害心を変ず、(上総氏)   

この様に 「吾妻鑑」 に記された頼朝との接触の情況は、仮にそれぞれの豪族が後に滅ぼされることなく、幕府内に置いて実権を有することが出来たならば、それぞれの 「吾妻鑑」 の始まりとして意識された事でありましょう。

元々東国の豪族が都から下ってくる貴種を迎えることは広く行われてきた。 これ以前に頼朝の父義朝を房総半島に迎えたのは上総氏である。  義朝が下総国相馬御厨(mikuriya)を襲撃したとき、その後ろ盾は上総常時(tunetoki)が行ったという、また義朝が相模の大庭御厨に乱入した際、義朝は 「上総曹司」 と呼ばれていたと云う。
やがてその義朝を鎌倉に迎えたのは三浦氏である。 義朝は鎌倉亀ヶ谷(kamegayatu)に居館を構え(現・寿福寺)、三浦氏の娘との間に長子「鎌倉悪源太」義平(yosihira)を儲けている。 この義平は、武蔵国大蔵館に住んだ叔父の義賢(yosikata)(義朝・弟)を討ったが、義賢もまた武蔵国秩父氏に迎えられていたのである。
義朝の居館跡・現扇ヶ谷・・・寿福寺参道
寿福寺・参道

これは東国の豪族の 「家」 が、貴種との結びつきで起こされた事と良く関係している。  頼朝の挙兵から南関東への進出は、多くの家々を生み出す効果があったと。 家とは何よりも意識の問題であり、その意識に媒介された結合の問題である。 関東の家々は都から下ってきた貴種の動きに触発されて生まれ、またその家々が連合して貴種を擁して作り上げたのが幕府という 「武家」 の権力なのです。

後の承久元年(1219)正月、将軍実朝は鶴岡の社頭で暗殺されたが、その後継者として皇族将軍の下向を要請した使者は、 「宿老の御家人」 が連署する奏状を携えていた。  その弐年後に起きた承久の乱では、討幕の宣旨に抗して、幕府は東国十五ヵ国の 「家々の長」 に対して出陣する様に触れている。
明らかに幕府は東国の家々の集団からなっていたのであり、頼朝の初期には南関東の家々だったものが、東国十五ヵ国の家々へと広がり発展してきたわけである。

「吾妻鑑」 は、その家々の中でも中心に位置したのが北条氏であると主張している。  良く知られているように将軍家の関係者と共に、北条氏についても 「北条殿」 「北条主」 「江間殿」 など敬称を付けているのはその一端である。 そして幕府の端緒を、以仁王の令旨を時政が頼朝と共に披くことに求めたのであった。  幕府は東国の家々を代表する北条氏と、令旨を帯した 「将軍」 頼朝とともに始まったというのが、 「吾妻鑑」 の語りたかったことではないでしょうか。・・・・    次回に続く

丁酉・丙午・丁巳
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