FC2ブログ

タイトル画像

*「吾妻鑑」*

2017.06.03(07:18) 63

**「吾妻鑑」欠落部の謎

**重大事件との関係・・・

「吾妻鑑」 は完本ではなく、途中、十二年間分かけている。  しかも頼朝と朝廷との接触があった寿永二年(1183)、頼朝の死につながる落馬のあった建久九年(1198)、  北条泰時(yasutoki)の亡くなった仁治三年(1242)、など、きわめて重要な事件が起きた年に限ってその欠落が目立つ。  そこにある種の作為の存在を見出しているのが、これまでの研究である。

北条氏執権政治の統治者の立場からする真実の歪曲、美化あるいは隠蔽という 「吾妻鑑」 の編者にとっての至上の要請の前に、これらの年の叙述は難しく困難を極め、完成する事が出来なかったと思われます。

欠落部分には叙述困難な重要事件が存在したのであろう、上記のような指摘は大変に興味深い。 しかし、「吾妻鑑」の実録指向からすればからすれば、重大事件はその事件なりに淡々と叙述すればよいのであって、叙述困難というほどの事でもないようにも思う。
たとえば頼家を追い落とす事件については詳細に語っており、実朝暗殺事件も記している。 陰謀があったのではないかとされる北条義時の死も、或は三浦氏を滅ぼした宝治合戦についても、考えてみれば叙述困難と云えなくもないが、しっかりと記している。

そうすると、欠落は散失によると考えられるが、ただ建久七年(1196)からの三年間が欠落しているのまで偶然として処理しにくい、建久九年はともかく、七年、八年はさして重要な事件は無く、またほかにはこの様にまとまっつて欠落する事は無い。 しかもこれが頼朝の将軍年代の最後の三年分である点で、何らかの偶然とかたずける訳にはいかない。

「吾妻鑑」 が未完成の作品である事が前提となっている。   しかし、この作品を 「完成品」 として考えてみて、そのうえであえて三年分をわざわざ作らなかったという考え方もある、つまり最初から三年分は構想されなかったという可能性もある。
北条によつて追い落とされた源頼家の一子・一幡袖塚 (鎌倉市・大町  妙本寺)一幡君・袖塚
源頼家婦人・若狭局実家 比企能員邸跡石塔&一族の墓
比企能員邸跡・石塔
比企一族・墓所
次回に続く

丁酉・丁未・辛酉
スポンサーサイト





鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


鎌倉幕府・歴史書 トラックバック(-) | コメント(0) | [EDIT]
<<*「吾妻鑑」* | ホームへ | *「吾妻鑑」*>>
コメント
コメントの投稿













管理者にだけ表示を許可する