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鎌倉幕府五代執権・北条時頼

2017.06.11(06:30) 65

**時頼は期待されていなかった?・・・

***おしらせ・・・「吾妻鑑」 暫く休みます。***

**父の死と祖父の養育

時頼誕生の翌年、安貞二年(1228)、父時氏(tokiuji)は、若狭国の守護に任じられた。 北条氏が若狭の守護に任じられるのはこの時氏が最初であり、以後文永七年(1270)ごろまでは、基本的には六波羅探題北方が兼任する慣例となったという。  もちろんこの人事は、執権泰時の強い意向が働いているとみる。・・・・時氏にかける期待の大きさがうかがえる。

*北条時氏・・・・執権・北条泰時・嫡男

寛喜二年(1230)、時氏は六年勤めた六波羅探題の任を終えて鎌倉に下向した。  時氏と交代に北条重時が六波羅探題に赴任するために鎌倉を出立している。 重時は泰時の弟(時氏の叔父)で、当時三十三歳。  小侍所別当を長く勤め、その政治的手腕を買われての起用である。

ところが、時氏は鎌倉到着後ほどなくして発病、長旅の疲れか解らないが、そのまま重体に陥り、死に至っている。  自分の後継者と決めていた息子を若くして失い、泰時は大変な嘆き様で、泰時の岳父であり幕府の有力者でもある三浦義村が 「諫言」 するありさまであったという。
さて、時氏の死後、時頼らの母(安達景盛の娘)は出家して、「松下禅尼」 と呼ばれるようになる。   経時(tunetoki)・(時頼兄)、時頼兄弟は母松下禅尼と祖父泰時に育てられるようになった。

**経時・元服

文暦三年(1234)三月五日に、三歳年上の兄・経時が、十一歳で元服をしている。経時の元服は将軍・九条頼経(yoritune)の御所で行われ、理髪を北条時房(tokifusa)が、加冠を将軍自らがつとめ、 「北条弥四郎経時」 と名乗ることになった。  (吾妻鑑)

*理髪・・・・童髪から成人髪に結いなおす役目。  奈良時代頃から

「弥四郎」という仮名(kemiyou)は経時が四男であったからではなく、北条時政・義時二代の仮名 「四朗」 を意識してのもので、北条氏嫡流としての正当性を示そうとする泰時の意思と思われる。
こうして執権泰時の後継予定者として武家社会にデビューした経時は、小侍所別当に任命される。   小侍所は、将軍御所の番役や将軍外出の供奉役の人選などをつかさどる役所で、別当はその長官である。  11歳の経時に、幕府政務の見習いをさせようという泰時の配慮であったのであろう。   (吾妻鑑)
更に経時は嘉禎三年佐近衛将監に任じられ、従五位下に昇進した。

*佐近衛将監(sakonoe・siyougen)・・・・将軍警護の長官

**時頼元服

嘉禎三年(1237)四月二十二日に元服、11歳であった。  時頼の元服は、泰時(祖父)の屋敷に将軍頼経を迎えて行われた。 泰時は、この日将軍を迎えるために屋敷内に新しく檜皮葺きの御所を建てるという力の入れようであった。  理髪は三浦義村、加冠は将軍頼経で、 「北条五郎時頼」 と名乗ることになった。    (吾妻鑑)
幕府第五代執権・北条時頼の建立  臨済宗・建長興国禅寺 (鎌倉市・山之内)
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執権・北条時頼公・墓所  (鎌倉市・山之内  明月院)
北条時頼墓
一見すると、将軍が加冠を勤めている点で兄経時と同等の待遇を受けているようであるが、場所は経時は将軍御所、時頼は泰時邸という具合に異なっている。  さらに 「五郎」 という仮名は 「弥四郎」 経時の弟であることからつけられたもので、本家の家督を継ぐ立場ではない。  時頼はあくまでも庶子であり、この時点で兄経時との差は歴然としていた。

暦仁元年(1238)九月、佐兵衛少尉に任じられ、始めての官職を得ている。 正七位上に相当する官職である。    (鎌倉年代記)

同じ時期、兄経時は評定衆に加えられ、従五位上の位を朝廷より得ている。 祖父・泰時が従五位上となったのは三十七歳だから、かなり早い昇進である。  これは祖父泰時自らの健康に対し、不安を覚え後継者経時の地位の確立をかなり強引に推し進めたものと思われる。

**兄経時の治世

仁治三年五月、執権北条泰時は病の為出家した。  泰時の家来50人ほどが後を追って出家し、日頃から疎遠な仲と噂されていた弟の名越朝時(tomotoki)も出家して世間を驚かせたという。   しかし、出家後も病状は回復せず、六月十五日に死去した。
この年は 「吾妻鑑」 の記事が欠落しているので幕府側の詳しい記録は残っていないが、京都公家の日記に、泰時の死についての伝聞記事が残されている。  泰時の臨終は高熱に苦しんだという。

泰時の死に伴って、翌日には孫の経時が執権となった。  十九歳である、経時の執権就任に際して、北条一族の内部の争い、つまり名越氏等の有力な庶流との間に執権職を巡る争いが無かったかどうか、正確な処は判らない。 先にも触れたが泰時出家の翌日に名越朝時が出家したことは、おそらくこの様なことを想定したうえでの行動かと考えたい。  また京・六波羅探題の北条重時も鎌倉に下向し不穏な動きを治めたものと思われる。   次回に続く

丁酉・丁未・己巳
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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