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鎌倉幕府五代執権・北条時頼

2017.06.15(07:38) 66

**時頼は期待されていなかった?・・・・・

*北条経時・執権就任(第四代)

執権就任と共に経時は祖父泰時の保持していた得宗領相続しており、他に幾つかの寺社領に対する安堵状を発給しています。  (仁治三年・鎌倉遺文)

若き執権経時を支えるべき連署の職は、六波羅探題の重時が適任であったとみられるが、彼に代わる探題が見当たらなかったのか、・・・将軍周辺に形成されつつあった反執権勢力の抵抗があったのか、連署不在のまま政権はスタートした。

政権運営の中枢である評定衆は当時18名で、北条氏からは政村(常盤)、有時(泰時・弟)、朝直(大仏流)、資時(時房・三男)の4名が名を連ね、経時の母方の叔父安達義景と共に経時を支える体制が出来た。

しかし、有時は病の為ほとんど評定に参加しなかったので、経時を支える存在としての意義はなかった。  その代わり、経時の妻の父にあたる宇都宮泰綱(yasutuna)が評定衆に加わった。  また、法曹官僚の清原満定(mitusada)、は、実務経験の豊富な事務官であるが、得宗家に近い立場の人物であった事が解っている。 (関東評定衆伝)

これに対して、のちに反執権勢力として退けられる毛利(大江)利光、三浦泰村、後藤基綱(mototuna)、狩野為佐(tamesuke)、町野(三善)康持(yasumoti)らも同時に評定衆として在任中であった。  毛利利光は時頼の妻の父でもあったから、この時点で単純に反執権派とみなすことは出来ないが、経時を巡る政治状況はなかなかきわどいものであった。

これと前後して、経時は正五位下に昇進している。  それと共に佐近衛将監から、前執権泰時が就いていた武蔵守に就任、執権にふさわしい位階・官職を順調に獲得していった。

扨て、執権就任後の経時は、何度かにわたって、訴訟制度の改革を計っている。  まず寛元元年(1243)、問注所での判決草案作成について、重要案件は二ヵ月、中程度は一ヵ月、小案件は二十日と、それぞれの期限を定めている。   (吾妻鑑)

次に、評定衆を三グループに分け、それぞれ月に五日ずつ会議日定めて訴訟を担当することにした。  これはおそらく、従来の全員参加の評定では欠席が多かったために、裁判の迅速・正確を期する為の改革であった。  後の時頼の時代にスタートする引付制のさきがけとなる様な制度とみなせる。

経時の執権在任中最大の政治的事件は、何といっても、寛元二年(1244)の、将軍九条頼経の更迭である。  頼経は建保七年(1219)にわずか二歳で鎌倉に下り、嘉禄二年(1226)に九歳で将軍に就任してから十八年が経っていた。  この間、将軍頼経の周辺には北条庶流の名越光時(mitutoki)や有力御家人三浦光村(mitumura)などの側近集団が形成され、北条氏嫡流の執権勢力と対抗する様になっていたのである。

頼嗣(yoritugu)・(九条頼経の子)の元服が経時の主導で行われ、非常に急いで将軍任命が申請された事などから、頼経の将軍更迭は、彼の政治的影響力を怖れた経時によって強制されたとみられる。  経時は、反対勢力となった将軍側近勢力を解体するため、中心にいる頼経を将軍の座から引きずりおろしたのである。

寛元二年(1244)四月、九条頼嗣(6歳)を将軍に任命するとの宣旨が朝廷より下された。  同時に従五位上・右少将に任じられた。    (吾妻鑑)
北鎌倉・明月院、東慶寺の花々
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次回に続く

丁酉・丁未・癸酉
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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