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鎌倉幕府五代執権・北条時頼

2017.06.23(06:20) 68

**政治の表舞台へ

*執権就任

経時の後継の執権に就いて、経時子息に継がせるという選択肢もあり得たが、長男・隆時(takatoki)は6歳、次男・頼助3歳という事で、あえて経時自身が弟の時頼を強く推したと推測する。

前将軍頼経を中心とする勢力と対抗するには、幼少の執権を一門や側近が補佐するという体制では危うい、という判断であろう。  同時に恐れたのは北条氏一門でありながら得宗家に対抗する勢力を持ち、のちに時頼に叛くことになる名越光時(mitutoki)の存在である。  経時の死後に次期執権を決めようとすれば、幼少の経時の子息を退けて、光時が執権の座に就くこともあり得たと考えられ、得宗側が先手を打って時頼への執権継承を将軍命令という形で強行突破したのであろう。

素早い執権交替が成功したとみえ、時頼の執権着任後には、目立った反発の動きは無かったが、新執権を取り巻く権力状況は、兄の場合と同様、厳しいものであった。  執権を補佐すべき連署は、時頼の執権就任時にも置くことは出来ませんでした。  また、政権当初の評定衆の構成を検証すると、評定衆21名のうち反時頼派が8名を占めていた。  具体的に、毛利(大江)季光(suemitu),海東(大江)忠成(tadanari),三浦泰村(yasumura)、後藤基綱(mototuna),狩野為佐(tamesuke)、三浦光村(mitumura)、千葉秀胤(hidetane)、町野(三善)康持〈yasumoti)、等である。

さらに、評定衆以外の反時頼派の急先鋒としては、北条氏庶流の名越光時(mitutoki)がいた。    幕府の正月行事である 「椀飯」(ouban)において、幕府内の高位者の中に位置する名越氏の祖・朝時(tomotoki)がおり、名越氏が執権・連署・六波羅探題の重職に就かなかったのは、家格が低かったからではなく、むしろ得宗家に匹敵する格の高さによるという評価がある。

名越朝時は寛元三年(1245)に死去しており、その後は子息の光時が継いでいた。  当主光時が加賀・能登・越中・佐渡・大隅の守護を、弟の時章(tokiaki)が筑後・肥後の守護を歴任しており、名越氏は地方にも侮りがたい基盤を築いていたという。

その様な名越氏が、時頼の執権就任に不満を覚えるのも当然であろう、名越氏は時政(tokimasa)以来の名越邸を相続する自分たちの系統こそが嫡流だと主張し、光時こそが次の執権に就くべきとの考えがあったのである。

以上の様に、執権時頼に反発る人々は、北条一門の名越氏と三浦・千葉・後藤の有力御家人層、大江・三善の有力官僚層を含む、一大勢力であった。  そして、彼らがよりどころとしたのが二十年近く将軍を勤め、将軍職を追われながらも鎌倉に居座り続けている九条頼経であった。

執権就任直後こそ、何事も起こらなかったものの、経時が死去するとたちまち不穏な動きが見え始めた。  没後二十日を過ぎた頃、鎌倉の中心部が騒がしくなり、甲冑を付けた武士たちが街中にあふれた。   「吾妻鑑」 の当日の条には、関東周辺の御家人が続々と鎌倉に駆け付け、その数は数万騎と記され、連日の騒動が一向に収まらない、と記している。

**前将軍・頼経、名越光時の陰謀

寛元四年(1246)五月に入って、ついに前将軍・九条頼経と名越光時を中心とする時頼排除の陰謀が発覚し、あわや合戦という状況になった。  頼経の側近であった光時は事あるごとに参じて謀叛を勧めた、という噂が鎌倉中に流れ 「北条氏の本流は自分であり自分こそが執権となろう」 と企て、頼経も味方したが、事前に発覚してしまった。

もう少し具体的に事件の動きを 「吾妻鑑」 から追ってみると、五月二十二日の寅の刻(午前四時頃)、時頼の叔父安達義景(yosikage)の甘縄の屋敷周辺が騒々しくなり、騒ぎがさらに広がった。  時頼方の主要人物・義景が、反時頼方との合戦に備えて兵を集めたか、更に先制攻撃を仕掛けようとして策動したかである。   何れにせよ義景は、反対派に対して断固たる態度に出るようにと、自らの行動をも示しつつ時頼に決断を迫ったのであろう。
北条時政名越邸の 「名越」 切通し・切岸がハイキングコースの中に残る。
名越・切通し
名越・大切岸
名越切通し
次回に続く

丁酉・丁未・辛巳
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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