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鎌倉幕府五代執権・北条時頼

2017.06.27(07:49) 69

**前将軍の送還

**三浦氏との協調

時頼は直ちに反対派を攻撃することは差し控えた。   鎌倉の住民たちは、合戦が起こりそうな情勢を察知して、財産・家財道具を避難し始めた。  時頼は得宗被官らに命じて鎌倉中の辻々を警備強化、交通上の要所を自らの兵で固めた。

夜半になって、武士たちが甲冑をつけ旗を掲げて走り回り、御所あるいは時頼邸に駆け付けた。 「名越光時の謀反が発覚した」 という噂が飛び交った。  うわさが広がったのは、おそらくは時頼方の情報操作によるもので、謀反の首謀者が光時であるとの認識を示し、頼経と分断することで、結束を乱そうとしたと思われる。

翌日になっても、相変わらず鎌倉は騒然としていた、特に時頼邸の警護は厳重で、甲冑を付けた兵士が屋敷の四方を固めた。  御所を監視下に置くだけでなく、時頼自身の防御も完全に固められた。   もはや、勝敗は明らかであった。
一方、名越光時は前夜から御所に詰めていたが、明け方になって、異変を知り家臣に呼び出され、急いで御所を退出し自邸に戻ったとありますが、このとき、御所を包囲していた時頼方は、光時を拘束できたはずであったが、あえて見逃した様だ。   時頼は、事を荒立てて合戦にならないよう、できる限り穏便な措置をとったのでしょう。・・・・ (吾妻鑑)

名越邸を包囲しつつ、光時が自主的に投降してくるように仕向け、直接・間接に圧力をかけたものと思われます。  此のあたりも、決定的な衝突を嫌い、より慎重に事を進めようとする時頼流の気配りが感じられる。  結果、光時は御所に戻る事も出来ず、味方の軍勢を動かすこともできず、ついに罪を認め出家し、切り落とした髪を差し出したと言う。 (吾妻鑑)

今回の事件は、時頼を追討する計画に賛同した者たちが起請文に連署して結束を誓い、その張本人は名越一族であるという、専らの噂であった。   しかし、この噂が出るや否や、光時の弟時章(tokiaki)・時長(tokinaga)・時兼(tokikane),らは、野心はないと時頼に陳謝し許しを願っていたので、時頼もその言い分を認め、罪に問いませんでした。   おそらくは、名越一族との正面からの衝突を回避するため、時頼側の根回しと思われる。

同じ弟のうち、時幸(tokiyuki)はこの日、出家している。  光時と同じく強硬な反対派に属していた。  時幸の出家は病気の為と 「吾妻鑑」 は記している、その後死亡した際の記事にも、特に死因を記していない。  しかし、その後 「自害した」 との噂が広まった、反時頼派の中心人物であったため追い詰められての自害と見た方が自然であろう。   「吾妻鑑」 が時幸の謀反荷担に触れないのは、できるだけ事件の範囲を最小限にとどめ、時幸の死を不名誉な事と記録されないよう、時頼の配慮が窺える。
つまり、幕府の公式見解としては、あくまで時幸の出家・死去は病気によるもので、名越氏の叛逆は頼経側近の光時一人の暴走によるとの見解だ。

名越氏も一枚岩ではなく、謀反の罪を光時や同調する時幸に押し付けて一族の危機を切り抜けようとした動きもあったのである。

**体制立て直し

騒動が一段落した頃、時頼邸で寄合が開かれた、参加者は時頼の他、北条政村(masamura)・金沢(北条)実時(sanetoki)・安達義景(yosikage)で、時頼政権の最中枢のメンバーだ。    事件の事後処理、とりわけ頼経の扱いや、反対派の主力でありながら今回は動きを見せなかった三浦氏への対応等が話し合われたのであろう。

暫くして、謀反人に対する処分が公表された。   名越光時は越後国所領をほとんど没収したうえで、伊豆への流罪。千葉秀胤は上総へ追放。  (吾妻鑑)
但し、光時は 「伊豆国の江間宅に赴く」 とあり、伊豆江間郷の北条氏の邸宅で謹慎という事であり、秀胤についても上総は自己の本拠地である。  したがって、意外に寛大な処分とみる。   新政権を発足させたばかりの時頼が、できるだけ対立を避け、事態を早期に終息させようとした結果であろう。

京・六波羅探題の北条重時(sigetoki)㋨許に鎌倉から安達泰盛(yasumori)が使者として上洛し、九条頼経の上洛を報告した。  泰盛は安達義景(yosikage)の子であるが、今回の上洛は 「重時の使者」 と表現されており、泰盛と重時の密接な関係がうかがわれる。  そもそもこの政変は安達義景(yosikage)の仕掛けで始まったもので、騒動の始まりと終わりに安達親子が登場する事から、安達氏がこの政変を主導したとみられ、重時もこれに連携したということになる。
北条時頼公菩提寺・鎌倉明月院方丈  (鎌倉市・山之内)
明月院・方丈
明月院やぐら  (鎌倉市・山之内)
明月院・やぐら
次回に続く

丁酉・丁未・乙酉
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