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名執権・北条泰時

2016.10.17(16:52) 7

建保元年(1213)五月、和田義盛とその一族が、険悪な関係にあった、北条氏打倒を目指して挙兵した。 (和田合戦)
義盛の軍勢は将軍御所、北条義時邸・大江広元邸を襲撃するが、従兄弟の三浦義村の裏切りによって討ち取られ、合戦後、北条義時は従来の政所別当のほか、義盛に代わって侍所別当も兼任。
和田一族・墓所>(鎌倉・和田塚)
和田一族墓所
和田塚ガイド

和田合戦
三代将軍実朝の頃、頼朝以来の旧臣といえば北条氏を除いて、和田義盛・三浦義村位のものであるが、御家人の最長老で人望の有る義盛は義時にとって目障りな存在であった。
とくに義時がい意のままに操っている将軍実朝の信頼が厚いことが気になっていた。
建保元年(1213)2月、泉親衛(izumi・tikahira)の事件に関与、多数の計画加担者の中に義盛の子や甥も含まれていたことから、その処遇を巡って北条氏と激しく対立することになる。
和田義盛とその一族が、険悪な関係にあった北条氏打倒を目指して挙兵する。  義盛の軍勢は将軍御所・北条義時邸・大江広元邸を襲撃するが、従兄弟の三浦義村の裏切りもあって、翌日には敗戦した。
その結果、幕府の侍所・政所の両別当を兼任したことは前にも述べた、案外に目立たなかったのは、相模・山の内荘(北鎌倉)と武蔵・六浦荘(横浜市・金沢区)とを義時が手に入れた事である。  ともに隣接していたので、いざという時には、何時でも自軍を鎌倉に投入できる事になった。

実朝・暗殺
しかし、和田合戦後の数年間、比較的平和だった・・・・・。
承久元年(1219)正月、将軍実朝は右大臣拝賀のため鶴岡八幡宮に詣で、先の将軍頼家の遺児で八幡宮別当になっていた公暁(kugiyou)に暗殺されたのである。 そのあと公暁自身も討たれ、源家(源氏)将軍家は三代で断絶したことになる。
右大臣拝賀式に将軍の御剣役・義時も参列するはずであったが、体調不良のため源仲章(nakaaki)と交代して退出したと「吾妻鑑」に記されている。 その仲章も、同時に殺害された。
実朝の背後を歩いていた仲章が、義時と間違って斬られたと信じられていた。  しかし、後世では、公暁の陰謀を事前に察知した義時が、体調不良を装って、御剣役を辞したのだと解釈されたり、さらには義時は公暁をそそのかした事件の黒幕とさえ思われたりもした。
覚園寺・薬師堂(前身・大倉薬師堂)
覚園寺・薬師堂
同年二月、北条政子は、後鳥羽上皇の皇子を将軍として下向させることを申請するが拒否され、次に左大臣藤原道家の子三寅(mitora)が頼朝の遠縁にあたることにより、将軍の後継として鎌倉に下向した。

承久の乱
承久三年(1221)5月、事件が起きた、後鳥羽上皇が院宣を発して、全国に討幕を発した。承久の乱です。  鎌倉の幕府は若干の動揺をしたが、専守防衛か、上洛出撃かである。  大江広元・三善義信らの意見が採択され、三道からの出撃・上洛が決定した。それに先立ち、尼将軍政子が御家人らを集めて熱弁を振るった事は歴史に残る名演説とされる。
「承久の乱」は、天皇家を敵とした戦いだった。しかし、幕府軍は迎撃に出た京方を撃破し、一か月程で勝利した。
戦後処置を行うため北条泰時は、六波羅探題として、叔父の北条時房と共に上洛し義時の指示に従って業務を遂行した。愈々泰時の登場である。 次回に続く。

平成二十八年・丙申‣己亥・丁丑
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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