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鎌倉幕府五代執権・北条時頼

2017.07.01(07:51) 70

**前将軍の送還

**三浦氏の動向

時頼打倒計画の背後にいた前将軍・九条頼経は、事件が一段落したのちに、京へ上洛することになった。 時に頼経29歳、一人残される将軍頼嗣は8歳であった。   京都で頼経に仕える者として十二人が同行、道中の供として十五人の御家人が付き従った。  その他僧侶・陰陽師数名が同行した。   (吾妻鑑)

供の御家人十五人の中には、頼経とつながりが深く今回の政変で評定衆を解任されたばかりの後藤基綱(mototuna)・狩野為佐や、同じく頼経の側近で後に時頼に反旗を翻す三浦光村(mitumura)も含まれていた。  敢えてこのような人選をしたのも時頼の気配りの表れであろうか。  十五人の筆頭に挙げられているのが北条時定(tokisada)・(時房の子)で、彼の妻は時頼の妹であるから、時頼とは義兄弟という事になる。  この時定が時頼の名代、いわば時頼が付けた目付け役として道中を取り仕切ったのであろう。

北条時定をはじめ、頼経上洛の供をした御家人たちが鎌倉に帰着した。  その報告書によれば、三浦光村(mitumura)だけは頼経の側に残って数時間を過ごしたとある。・・・・・二十数年間お側に仕えたので互に名残がつきなかったようである。  その後光村が人々に 「必ずやもう一度、鎌倉に迎え入れたい」 と語ったという。  (吾妻鑑)

**北条重時の連署就任?

時頼にとっては気の抜けない状況が続いており、時頼は三浦泰村を招き、世情の動きを相談した。  その中で時頼は六波羅探題の北条重時を鎌倉に呼び寄せ幕府・連署への就任を打診した。   しかし、泰村は即座に拒否、重時の連署は実現しなかった。

重時(極楽寺・北条)は、時頼が一族の中で誰よりも信頼している人物で、政治的な経験も豊富であった。  彼を連署にすれば、時頼政権は盤石となるが、得宗家に対抗して勢力を保持したい三浦氏としては、重時の連署就任は避けたかったのではないか。・・・・・

その様な状況の中で時頼のとった政策は、将軍頼嗣をシンボルとする新体制造りにまい進していった。  更に時頼は朝廷に働きかけ、頼嗣は従四位下の位に就いた。  (吾妻鑑)

これも、幕府の頂点に立つ者にふさわしい身分的な飾りを整えようと働きかけた結果であろう。 人心を安定させるために、貴い身分である将軍頼嗣をトップに頂くという形式は尊重しつつ、 時頼が積極的に御家人の掌握に勤めていたことが解る。

**合戦の予兆

さて、時氏と泰村の妻(泰時の娘)が、相次いで早世し、さらに安達景盛の娘を母とする時頼が執権の地位に就いたことで、事態は大きく変わった。 時頼の外戚(母方の親戚)である安達氏は、本来であれば得宗家に次ぐ序列が与えられるべきであったが、三浦泰村は時氏の外戚として保持した特権的地位を安達氏に譲らず、依然として幕府に重臣として振る舞い続けたのである。これが安達氏には面白くなかったのである。

この頃、時頼本人は三浦氏に対してどのように考えていたのであろうか。・・・・どうも煮え切らない。  三浦氏が、先の寛元の政変(宮騒動)の時に反時頼側であった事は、宝治合戦で光村が残した最後の言葉に 「頼経様の代に、道家様の内々の仰せに従って行動に移っていれば執権の座を得られたのに、兄泰村が躊躇した為に、一族滅亡するに至った」 とあること。   (吾妻鑑) からも、間違いはない。

九条頼経を京都に追放した時に三浦光村が 「頼経を再びお迎えしたい」 と語ったように、三浦氏が頼経に心を寄せていて、何れ頼経を迎えそのもとで政権(執権)を担当することを狙っていたことは容易に推測できる。 更に重時の連署就任にも反対した三浦泰村が、表向きは従いながらも一貫して反時頼派であることは明白である。   したがって、安達氏と三浦氏が衝突することになれば、ただちに時頼派と親頼経派の合戦となる事が予想された。
源頼朝・法華堂跡 (鎌倉市・西御門)
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宝治合戦で時頼に滅ぼされた三浦泰村以下一族の墓 (鎌倉・西御門)
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次回に続く

丁酉・戊申・己丑
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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