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鎌倉幕府五代執権・北条時頼

2017.07.05(06:23) 71

**宝治合戦への道

**三浦氏と安達氏の対立

先の政変で安達義景(yosikage)に背中を押されるように名越光時(mitutoki)らを排除しながらも、結局は名越一族を攻め滅ぼすことなく、できるだけ穏便に決着を図った時頼である。   今回も時頼は、安達氏の圧力を感じながらも、何とか武力による討伐を回避し、双方の顔を立てようと努力したようだ。  慎重といえば慎重であるが、優柔不断ともとれる時頼の態度である。

おそらくは、頼朝挙兵以来の功臣三浦氏と安達氏の何方も傷つけることなく、幕府の政権運営をまとめたかった、真面目で気配りの人時頼の本音だったのではなかろうか。
三浦一族・家臣の墓 (鎌倉・来迎寺・・・材木座)
来迎寺・三浦氏


合戦への不安が募る中、北条経時(兄)(tunetoki)の一周忌の法要が営まれた。  時頼や松下禅尼(母)等が参列し、多くの人が集まったという。  (吾妻鑑)  北条一門の結束が改めて確認されたものと思われる。

出家して高野山にいた安達景盛(kagemori)が事態の行方が気になり鎌倉・甘縄の屋敷に戻っていた。   そして、連日のように時頼のもとを訪れて、長時間にわたって談合したという。  しかし、時頼の態度は煮え切らない・・・・・。

**安達景盛の開戦要請

三浦氏に対して強く出ない時頼にしびれを切らせた景盛は、三浦を討てと説得したが、何とか合戦を回避したい時頼との間で、話は平行線に終わったのであろう。 高ぶった気持ちのおさまらない景盛は、子の義景(yosikage)と孫の泰盛(yasumori)に対して 「三浦一族は今や武勇を誇り、傍若無人の勢いである。 このまま時を過ごせば、我ら安達の子孫は三浦に遠く及ばないことになろう。  ここが思案のしどころであるのに義景といい、泰盛といい、現状に甘んじていて、合戦の備えを怠るとは、何たることか」 と厳しく叱責したという。

将軍頼嗣の妻で時頼の妹でもある檜皮姫(hiwadahime)が、病死した。(18歳)   檜皮姫の死で頼嗣と時頼の縁は薄まったが、これ以後も将軍としての頼嗣の育成に力を注いでいる。  妹の喪に服する為、時頼はこの日より、三浦泰村の屋敷に寄宿するという行動に出た。  (吾妻鑑)

時頼がよりによって泰村邸に住まいを移したのは、三浦氏を信頼していることを行動で示し、相手の警戒心を解こうとしたものであろう。  しかし、事態は時頼の思うようには進まなかった。

時頼が滞在中の泰村邸では、三浦一族の者が群集していたが、一人として時頼に挨拶しなかった、何事か準備する様子で出会った。  夜になると甲冑を付ける様な気配が聞こえ、「最近聞こえてくる謀反の噂は、特に信用していなかったが、どうやら本当らしい」として、急いで泰村邸を出て、自宅に戻った。(なんとなく、悠長?)  泰村はあわてて、内々に詫びを入れたという。  (吾妻鑑)

鎧の音の件は事実かどうかは不明であるが、とにかく時頼が安達氏をはじめとする周囲の言葉を聞き入れ、三浦氏と対決する道を選択した事は確かである。
三浦氏・本拠地 衣笠城址  (横須賀市・衣笠)
衣笠城址
次回に続く

丁酉・戊辰・癸巳

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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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