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鎌倉幕府五代執権・北条時頼

2017.07.09(07:00) 72

**宝治合戦

**三浦氏との対決を決断

不穏な動きはもはや隠せない所まで来ていた。  時頼が泰村亭に送った使者からの報告に、弓数十張,矢・鎧を収めた唐櫃棹が目撃されてた。  更に近国の御家人が集まって時頼邸の警固に当たった。 その中で佐原盛連(morituna)の子息たちが、三浦一族であるが同意はしていないと時頼の許に赴いており、三浦一族も一枚岩でない様子が見える。

*佐原盛連・・・・佐原義連(yositura)の子。 妻の矢部禅尼は北条泰時の元妻で時氏(tokiuj)の母

佐原義連の墓 (横須賀市・佐原)
佐原義連墓
佐原氏菩提寺・万願寺(横須賀市・佐原)
佐原・満願寺

しかし、時頼は家令(執事)を使者にして、泰村に対して討伐の意思がない旨の誓詞を遣わした。  時頼は最後まで和平の道を探っていたものと見られる。     これに対し泰村も喜悦して返答している。  泰村も時頼同様、和平の道を探していたのであろう。

しかし、 この時頼の行為に対して安達一族が過敏に反応した。  覚地〈景盛)が義景(yosikage)・泰盛(yasumori)を呼び、 このままでは三浦がひとり驕りを極め、安達氏の立場が危うくなると叱責した。

これが安達氏による三浦氏攻撃の号令となったのです。  泰盛らは、一族・軍士らを率いて甘縄の舘を出て八幡宮の門前で出陣の声を上げた。  この期に及んで時頼も三浦攻めを決め、金沢実時(sanetoki)に幕府・御所を警固させ、北条時定(tikisada)・(時頼・弟)を大手の大将軍とした。

三浦方もこれに対し、郎党らを辻々に置き、矢石を放つなど応戦した。 また御家人らも身命を忘れて戦っている。 こうして開戦の火蓋が切られた中で、毛利季光(tosimitu)が三浦方に加わった。 妻が泰村の妹という関係があり、妻に押し切られる形で最終的には三浦方へと傾いたのであった。

やがて泰村らは頼朝法華堂に籠った。一方光村は永福寺(youfukuji)に籠って応戦しようとの思いがあったが、泰村の頼朝の御影の前で最期を迎えたいとの意志に沿い、永福寺 を出て法華堂に向かった。
源頼朝・法華堂跡石塔(鎌倉市・雪ノ下)
頼朝・法華堂

法華堂に集まった三浦一族は、頼朝の御影の前に整列し、往事を談じたり最後の述懐に及び、専修念仏者であった毛利季光によって法事讃が行われ、泰村以下宗たる輩276名、都合500余名が自殺した。

*法事讃・・・・声明行の事

その後、時頼は京・六波羅の北条重時のもとへ使者を遣わして事の次第を報告した。  三浦泰村が挙兵したので時頼が将軍頼嗣の許に駆け付け討手を遣わした所、三時(6時間)ばかりで決着がつき、泰村以下三浦一族はみな誅された。  (吾妻鑑)

朝廷には、事件は三浦泰村の反乱として報告された様である。  合戦は?・・・朝から夕刻までに及び、安達方・北条方の勝利で終息。     次回に続く

丁酉・戊申・丁酉
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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