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鎌倉幕府五代執権・北条時頼

2017.07.13(07:00) 73

**合戦の集結

**政権基盤の強化

鎌倉の合戦が終結した翌日、三浦方の有力与党であった一族の一掃が行われた。  まずは上総を本拠としていた上総秀胤(hidetane)である。 秀胤は、泰村の妹婿でもあり、光村と共に前将軍派としての動きを見せており、先の寛元の政変では評定衆を罷免され、上総に引きこもっていた。  時頼は、この秀胤の討伐を一族の大須賀胤氏(taneuji)に命じた。

そして、常陸では、三浦泰村の妹婿関政泰(masayasu)の郎党が小栗重信(sigenobu)と合戦し、関の郎党が敗れ居館に火を放っている。  この他にも、毛利季光に同意した咎により毛利忠成(tadanari)が評定衆を罷免されている。

寄合の座に於いて、合戦による自殺者・討死者の氏名が明らかにされた。  それによれば、自殺・討死等は三浦泰村を筆頭に108人の名が、存亡不審の者として、三浦家村(iemura)(義村・四男)の名が、生慮の輩として、三浦胤村(tanemura)(泰村・異母弟)以下7人の名が、逐電の者として3人の名が記載された。

こうして宝治合戦は終結した。  これにより最大勢力であった三浦氏とその与党は一掃され、評定衆や鶴岡別当にも改善が行われ、幕府政治は執権・北条時頼のもと安達氏等親時頼派によって固められ、その後の得宗専制政治と呼ばれる政治体制の一歩が築かれた。

*鶴岡別当・・・・鶴岡・八幡宮寺内の組織

しかし、宝治合戦という事件の推移を見ても、 「吾妻鑑」 を読む限り、事件自体は三浦氏の勢力に恐れを抱く安達氏による攻撃であり、 決して北条氏対三浦氏ではなかった事が解る。  そして、執権時頼は、安達・三浦両者の間に割って入り、調整を果たそうとする役割を担ったようだ。  先代・経時の急死によって執権となった時頼にとって寛元の政変と宝治合戦は、極めて苦い経験となったのであろう。

宝治元年(1247)、北条重時(極楽寺)が連署に就任。  重時は長らく務めた京・六波羅探題を辞し、都から下向。  7月に鎌倉に到着。 北条泰時ゆかりの故北条経時の小町上宅を居所とした。 執権時頼は重時を、仁治元年(1240)の北条時房の死去以来置かれていなかった連署に就けて、政権基盤の強化をはかる。 11月には重時邸に評定所・小侍所が設置される。 (吾妻鑑)

*連署・・・・鎌倉幕府の職名、執権の補佐役・北条氏一門が就任し、幕府の発給する文書に執権と共に署判した。
*小侍所・・・・鎌倉幕府の機関、御家人が将軍に近侍する宿直や供奉等を管轄した。
2017・初夏の花々(扇ヶ谷・海蔵寺)・・・・凌霄花
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2017・初夏の花々 (扇ヶ谷・海蔵寺) 桔梗
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2017・初夏の花々 (扇ヶ谷・海蔵寺)  半夏生
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次回に続く

丁酉・戊申・辛丑
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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