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鎌倉幕府五代執権・北条時頼

2017.07.17(07:05) 74

**新体制のスタート

**時頼を支えるメンバー

宝治合戦の結果、三浦・千葉といった反時頼派の主力は没落した。  最大の危機を乗り切った時頼は、いよいよ本格的な政権運営を新たにスタートさせた。

早速、時頼は寄合を開き、「公家の事を特に尊敬する様に」 と決議した。  参加者は時頼の他に、北条政村(常盤)、金沢実時(sanetoki),安達義景(yosikage),と得宗被官・諏訪盛重(morisige)であった。 (吾妻鑑)

いずれも、宮騒動直後の寄合にも参加していた顔ぶれで、当時21歳の時頼を支える最重要メンバーであった。   政村は43歳になる北条一門の有力者、実時は24歳で時頼と年齢も近く、経時の相談相手も務めたパートナー的存在、義景は言うまでもなく時頼の叔父で、外戚安達氏の当主である。

この時に定められた「公家のこと」 とは、何らかの具体的な政策を示すものではないが、時頼が幕府の代表者として公家(朝廷)を重んじて政権を運営していくことを宣言したものであり、時頼政権の本格的なスタートに際しての決意表明のようなものだと思う。

さて 「吾妻鑑」 に次のような記述がある、頼朝の月忌にあたる日に、時頼は恒例仏事の為に頼朝の法華堂を参詣し、非常に盛大な仏事となったという。   幕府創設者の墳墓である法華堂の参詣は、泰時に倣って執権時頼も幕府を担うものとしての自覚をもって始めたものであったが、僅か三か月前に三浦義村・光村以下多くの武士を攻め滅ぼした現場であり、この時の参詣は時頼にとって複雑な心境であったはずである。  盛大な仏事も、合戦の死者に対する鎮魂の意味合いがあったのではないか・・・。   (仏教者の一面)
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**朝廷との交渉

時頼は、六波羅探題時代の経験も豊富な連署・重時の助けを借りつつ、朝廷との交渉もぬかりなく行っていった。  使者として大曽禰長泰(nagayasu)・二階堂行泰(yukiyasu)を500騎ほどの兵を付けて京都へ向かわせた。  早々に関東申次をへて後嵯峨上皇のもとを訪れ、「徳政をおこなわれるように」 ということや、三浦泰村が所有していた肥前神崎荘や筑前宗像社を上皇に寄進する事などを申し入れた。  「徳政」 の具体的内容は不明であるが、おそらくは評定制度の定着と公正な人事などが主なものであったろう。

その後、幕府の移転計画が中止となった記事に注目する。  この御所は、嘉禎二年(1236)に泰時の主導で新造された第一期若宮大路御所(宇津宮辻子御所)である。 時頼によって移転は決定されていたが、なぜか急遽計画が中止された。その理由は連署に就任した重時が御所移転に消極的であったからという。
この一件から、 「当時の幕府の主導権は連署重時が握っており、執権時頼はナンバー・ツーの存在にすぎなかった」という考察もある。   ナンバー・ツーにすぎないとまで言えるかどうかは別として、周囲の意見にいちいち真剣に耳を傾ける律儀な性格の時頼が、政務運営に於いて一門の長老重時の意向を最大限尊重しようとしていたことは疑いなく、その結果が御所移転計画の中止であった。

年が替わった宝治二年(1248)正月、幕府恒例の 「椀飯」 が行われ、時頼が沙汰人(幹事)を勤めた。  すでに述べたように正月一日~三日の沙汰人が幕府内の地位の順位に相当することが指摘される。  動乱を乗り越えた新年、改めて時頼が幕府の№・ワンであることが確認されたと云えよう。

さらに時頼は、二階堂・永福寺の修理を指示した。   永福寺は、源頼朝が義経・藤原泰衡(yasuhira)以下の奥州合戦の戦死者の霊を慰めるために、平泉の寺院を模して創建されたとされる。  (吾妻鑑)
この時の永福寺修理も、宝治合戦の犠牲者を供養すると同時に、三浦氏に勝利したことを内外に宣言する意味もあったのであろう。  
復元・永福寺基壇 (鎌倉市・二階堂)  
永福寺跡・石塔
永福寺跡復元図
永福寺・復元基壇
 次回に続く

丁酉・戊申・乙巳
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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