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鎌倉幕府五代執権・北条時頼

2017.07.21(07:00) 75

**皇族将軍の下向

**長男時輔の誕生

時頼に長男が誕生した。  母は将軍家に仕えた女性で、時頼の側室である。子供は 「宝寿」 と名づけられた。  のちに時利(tokitosi)と名乗り、さらに時輔(tokisuke)と改名する人物である。   (吾妻鑑)
正妻としては毛利利光の娘がいたが、前年の宝治合戦で利光が三浦方に付いたため、離別されたようだ。 
時輔の母に戻って、「讃岐の局」と呼ばれた女性である。  出雲国横田荘地頭の三処〈mitokoro〉氏の出身で、時頼没後は出家して、 「妙音」 と名乗り、時輔が二月騒動で追討されてからは、横田荘岩屋寺で余生を過ごしたという。

*二月騒動・・・・北条家の内紛、名越時章・教時を殺害、同時に時宗の異母兄で六波羅探題南方の時輔を一連の騒動に連座したかどで討伐した事件。

時輔は側室の子であるから、時頼の跡継ぎになる事はないのであるが、それでも時頼は安産の祈願をしたり、有力な得宗被官諏訪盛重(morisige)を任命したり、それなりに目をかけている。  確かに正妻の子である時宗(tokimune)や宗政(munemasa)の誕生したときに比べると、 「吾妻鑑」 の記事は極めて簡単ではある。 しかし、烏帽子親や婚姻相手の選定・官位の授与などを見ると、得宗家庶子としては相応な待遇であり、時輔が不当に差別されているとは言えないという評価だ。  身分不相応にならぬよう、時頼は時輔をも大事に扱っていた様だ。

幕府は宝治合戦の恩賞として新たに地頭となった者たちに対して、本所・国司・領家への年貢をきちんと収め、住民に臨時の課税を行わないようにと指令した。 宝治合戦で多くの御家人が滅亡した結果、諸国の荘園・国衙領で地頭が交代となり、年貢などを巡るトラブルが頻発したのである。  合戦の影響は二年近くたったこの時点でも、まだ残っていた。

**重時娘との結婚

建長元年の末ごろに、時頼は正妻として重時の娘を迎えたと推定される。 時頼は二十三歳、重時娘は十七歳、のちの時宗らの母である。  また、同年には建長寺の建立も始められている。

建長三年前半における時頼個人にとって二大事件は、嫡子時宗(tokimune)の誕生である。 次の得宗の誕生という事もあっての事であろうが、五月までの 「吾妻鑑」 の時頼関連記事は、出産関係の記事で多くが占められている。

五月には、安達氏の邸宅の一角、松下禅尼(時頼母)の甘縄邸(amanawatei)に産所が置かれ、産婦はここに移された。  十五日の午後6時ごろ、男子の誕生である。  正妻の長男、つまり時頼の正統な後継者として得宗の地位を継承することになるのである。 この男子こそが、正寿丸(siyoujiyumaru)、後の時宗であった。  正寿丸の 「正」 は正嫡を意味し、生まれながらの 「得宗」 であった。
鎌倉・初夏の花々(鎌倉・七月初旬)
鎌中公・半夏生

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海蔵寺・半夏生
次回に続く

丁酉・戊申・己酉

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