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鎌倉幕府五代執権・北条時頼

2017.07.25(07:00) 76

**皇族将軍の下向

**足利泰氏(yasuuji)の出家

得宗被官・諏訪盛重(morisige)の周囲であわただしい動きがあり、夜半に武装した兵が時頼邸の門前に集結するという騒ぎがあったが、一旦は鎮まったようだ。  程なくして足利泰氏(yasuuji)が自ら、幕府に無断で出家する「自由出家」 の罪を犯したことを申告してきた。 自由出家は罪であるので、所領の埴生荘は没収されて、金沢実時(sanetoki)に与えられた。 泰氏は、 「自分は時頼の親類であり、父義氏(yosiuji)は幕府の長老であるから、所領没収は許してほしい」と嘆願したが、許されなかった。   (吾妻鑑)

この後に続く謀反発覚事件や将軍頼嗣(yoritugu)の更迭という流れから見れば、足利泰氏は時頼打倒の陰謀に関与していたと考えられ、状況の不利を悟っていち早く手を打ち、出家したものと考える。  (建長三年・了行の陰謀事件)

**皇族将軍下向の要請

建長四年、二階堂行方(yukikata)と武藤景頼(kageyori)が、鎌倉から京都に向かった。 これは、「源将軍頼嗣を解任し、後嵯峨上皇の皇子一宮(宗尊親王)か三宮(後の亀山天皇)のどちらかを、新たな将軍として下向させてほしい」 と、時頼と重時が上皇に申請するための使者であった。  申請の手紙は時頼自らが作成・署名し、重時のみが署名に加わったもので、他の者は一切知らされていなかったという。  (吾妻鑑)
極秘中の極秘事項を、時頼がほぼ独断で決行したのである。

同時期の京都では九条道家(mitiie)が60歳で亡くなった。   息子の頼経を再び将軍に戻して朝廷内での勢力を挽回しようとした計画が失敗に終わった結果の死去ではないかと想像する。

時頼の要請を受け、上皇側では御所での討議が続けて行われ、11歳の一宮(宗尊親王)と3歳の三宮のどちらが良いかを幕府に尋ねることになった。 早々に鎌倉に使者が送られ、幕府内での検討の結果、宗尊親王(一宮)に決定したのである。

これ等の情勢からは、何としても皇族将軍を実現したい、との時頼たちの熱意が伝わってくる。  かって北条政子が皇族将軍を望んだ時には、後鳥羽上皇に 「どうして日本を二つに割る様なことをするものか」と一蹴された経緯がある。   以来皇族将軍の下向は幕府の長年の願いであった。

しかし、このころには幕府による軍事の支えによって院政が守られるという体制が定着しており、後嵯峨上皇と幕府の関係も良好なものであった。 幕府の方針も穏やかであり、上皇は特に問題にすることもなく皇子を関東に下す決断をしたのであろう。

宗尊(munetaka)親王は、後嵯峨上皇と平棟基(munemoto)の娘棟子(touko)の間に生まれた。  すでに、上皇と西園寺実氏(saneuji)の娘(大宮院)との間に生まれ、宗尊より年下である後深草天皇が即位しており、宗尊が即位する可能性はなかった。  そのため 「親王が天皇になれない以上は、関東に下って将軍になる事ほどよい事はない」とされ、宗尊親王の下向は京都の人々に受け入れられた。

そして、在位中の後深草天皇と兄弟の関係にある宗尊親王をトップに戴くことになれば、幕府や東国の地位は格段に上がることになる。
北条時政(初代執権)菩提寺・願成就院 (静岡・伊豆の国市)
願成就院山門(伊豆の国市)
北条時政公・墓所(伊豆の国市・願成就院)
北条時政公墓所(願成就院)
頼朝・挙兵の碑(伊豆の国市)
源頼朝挙兵の碑
次回に続く

丁酉・戊申・癸丑
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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