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鎌倉幕府五代執権・北条時頼

2017.07.29(07:22) 77

**皇族将軍の下向

**宗尊鎌倉到着と頼嗣上洛

宗尊親王の下向が朝廷で正式に決定された。  かねてからの予定どうりに宗尊は京都を出発鎌倉へ向かった。 一方、将軍の座を追われることになった九条頼経は御所を出て北条時盛(tokimori)の佐助の邸宅に移った。

いよいよ宗尊は鎌倉に到着し、時頼邸に入った。  しばらくは時頼邸の寝殿が将軍御所として使用されることになったのです。 程なく頼嗣が京都に向かって出発していった。 幼くして将軍の座に就いた頼嗣も、14歳になっていた。  (吾妻鑑)

参考・・・皇室関係系図(88代・後嵯峨天皇)~①天皇・・・□幕府将軍
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京都では宗尊親王を征夷大将軍に任命するという宣旨が出されていた。 直ちに宣旨の写しが六波羅から鎌倉に送られ、鎌倉に到着、時頼と重時がこれを閲覧している。 

追って、朝廷の使者が宣旨の原本を鎌倉に届け、名実ともに、征夷大将軍が誕生したのです。  (吾妻鑑)

**御家人の保護

主題を変えて、時頼の在任中の重要な諸政策についてレポート・解釈していく事にしたい。
まずは御家人保護政策の代表的なものとされる、京都大番役(oobanyaku)の改革について、・・すでに経時(実兄)の時に、幕府はそれまで大番役の御家人が篝屋(kagariya)勤務を兼ねていたのを廃位し、在京人に専ら行わせるようにしている。

*篝屋・・・・ 鎌倉時代  京・鎌倉の辻々に篝火を焚いて警固に当たった武士の詰所。
*在京人・・・・六波羅探題の指揮下にある京都常駐の御家人

この措置には、在京人の人員構成がこのころには充実してきたため、京都に慣れた在京人に担当させ治安維持の効果を上げようとする目的があったと考える。 同時に諸国から京に上る大番役の御家人の、負担軽減につながる措置だったと言える。

幕府は新たに大番役の当番表を作成し、主に関東の有力御家人に対して一番から二十三番までの順番を割り当て、三か月づつ勤めるように定めた。  之より以前の分暦元年(1234)の史料から、番役は六か月となっているので、今回の大番役改革によって勤務期間が六か月から三か月に減らされ御家人の負担は半減したと見られてきた。
 (吾妻鑑)

確かにそうした側面があることは否定できないが、この時の改革は、宝治合戦で多くの御家人が滅亡してしまい欠員が生じたことに対する事が主目的であった。  実は、前年に大番役は一時規模を縮小して、関東武士の勤務を停止し、畿内の武士のみで賄っていた。   したがって、関東の御家人にとっては負担の復活という面もあり、単純に御家人の負担軽減という事にはならず、むしろ負担の均等化と言った方が良いと思われる。

**検断機構の整備

次に時頼政権期の検断(警察)機構について検証します。   宗尊親王の下向後、山賊・海賊・夜討ち・強盗などの重罪人逮捕について、地頭の下にいる地頭代・沙汰人(satanin)も動員し近隣と協力して対処させたり、陸奥大道の夜討ち・強盗を、地頭・沙汰人・住人を組織して取り締まらせたり、検断機構を縦に横に組織して行ったという。

大番役の改革は、こうした一連の動きの中の一つであり、もともと軍事・警察を専門とする御家人(地頭)の責務が、より強く求められるようになったともいえる。   次回に続く

丁酉・戊申・丁巳
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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