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鎌倉幕府五代執権・北条時頼

2017.08.06(07:28) 79

**時頼政権の諸政策

**撫民と倹約

時頼の政権は、 「撫民」 (bumin),つまり民衆の生活安定を大事にする事を強調していた。  例えば、建長元年(1249)に、陸奥国好島荘(yosinosima)預所を勤める伊賀光宗に対して、幕府から年貢の絹の量を二百疋から百五十疋に減額する決定が伝達されている。 事は、その表れであろう。

*一疋・・・・織物の長さを表す単位。 反物二反分の長さ

地頭が一元的に支配している所領においても、名主(miyousiyu)から訴えがあれば、事情によっては幕府で採決を行うことを決めている。  地頭支配地について名主・百姓が訴訟を起こした場合、もし彼らに過失が無ければ、開発した土地のついては権利を認めるように定めている。  (吾妻鑑)

おそらく両者は、一連の法であって、前者における「事情」について、後者で詳しく定めたものと見られる。 地頭(御家人)の支配下にある庶民が、地頭の頭越しに幕府に訴え出て権利を主張する、いわば直訴の道を開いたものと言える。

諸国の雑人は地頭の紹介状、鎌倉中の雑人は地主の紹介状が無ければ、幕府に直接訴えることは出来ないと定め、問注所と政所に通達した。  (吾妻鑑)
問注所・政所に伝えられたのは、問注所が諸国の雑人を、政所が鎌倉中の雑人訴訟をそれぞれ担当する機関だったからである。
幕府機関・問注所跡 (かまくら・御成)
問注所石塔
付近を流れる佐助川に架かる裁許橋(鎌倉・御成)
佐助川
裁許橋

地頭が、自分を訴える様な訴訟の紹介状を書くことはありえないので、ここで想定されているのは雑人同志の訴訟であろう・・・。
雑人が訴訟を起こすことを認めつつも、地頭・地主(御家人)が絡まない雑人同志の紛争は、出来る限り居住地の支配者である御家人(地頭・地主)に対処させようという事である。


幕府評定で、「百姓が地頭を訴えた訴訟に関して、百姓に誤りが無ければ妻子・所従(奴隷)・資財・収穫物などについては返却し、田地や住宅については地頭が責任を以て百姓に与えるように」と定めた。 (吾妻鑑)

以上の事から、時頼政権は、雑人が御家人(地頭)の不当な行為を訴える様な雑人訴訟については幕府が直接取り上げる事を保証するかわりに、雑人どうしの訴訟についてはむしろ制限を加えて省力化を図っていたことが解る。 よって、雑人訴訟の重視は、撫民政策の一つではあるが、一面では雑人を通じて御家人の勝手な行動を牽制しているようにも見える。

*雑人・・・・一般庶民・百姓のこと

また、明らかに庶民の立場を守るための「撫民」の法令も出されている。  諸国の地頭代に対して出された十三か条の法令には、「撫民」の語が頻繁に現れる。  地頭代は地頭の代官として実際に現地で庶民の支配を担当する者たちである。  法令の内容は、「山賊・海賊などの重罪についても、証拠が無く容疑だけで逮捕し、拷問によって白状させて処刑してはならない」、「殺人・傷害の犯人は、本人だけを罰して、家族・親類を処罰してはならない」、「窃盗犯の家族・親類を罰してはならない」、これに叛くのは 「撫民の法」 を否定するものである、「牛・馬の窃盗は重罪に処すべきだが、『寛宥の儀』によって拘禁にとどめる、 地頭の中には民の些細な争いを咎めて処罰する者があるというが、今後は「撫民の計らい」につとめ、農業の推進を奨励した。

*寛宥の儀・・・・鎌倉時代・・・飢饉後の特殊な時代に合法化された法令

この十三か条の法令は、全体として警察活動の名目で庶民の生活を脅かす地頭・地頭代の行為を禁止する法令と云える。
時頼の政権は、御家人たちに対して、「政道」を体現し「撫民」の計らいをなす統治者である事を求めた。  次回に続く

丁酉・己酉・乙丑
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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