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名執権・北条泰時

2016.10.22(14:28) 8

北条氏所領の拡大

京方に加わった公卿・武士らの所領は幕府に没収され、恩賞として配分された。
ちなみに源平合戦で得た没官領は約500ヵ所、承久の乱で没収された京方の所領は3000にも及んだという、東国の武将たちは恩賞を甘受した。

北条泰時に戻って、先に進めよう、実朝暗殺の直後、小町館(現・宝戒寺)(執権邸)を父・義時より譲り受けていた。 義時は大倉館(現・岐れ道)に移り、子息たちを鎌倉中の要所要所に配置した。   次男・朝時は祖父時政の名越館に。  三浦半島と杉本寺とを結ぶ三浦道ほぼ中央(釈迦堂口)に位置する(違う解釈も)要衝である。朝時の系統が名越流を称するのはこの名越館に由来。
鎌倉の西稲村ケ崎から鎌倉に入る道は、奈良時代以来の東海道である。  この地に館を構えたのは三男・重時です。この重時館が極楽寺となる。この系統が極楽寺流となり、 隣接する山の内荘(北鎌倉・大船)には、義時・泰時直属の郎党が守り、その東北に六浦荘(横浜市・金沢区)には六男・実泰が館を構え、金沢流という。 鎌倉の入り口は子息たちによって固められた。
北条重時の極楽寺・山門(鎌倉・極楽寺)
極楽寺・三門
北鎌倉・円覚寺山門(鎌倉・山之内)
円覚寺山門

執権政治の確立

北条氏の地位を鎌倉幕府に強固に据え付けた執権、従四下前陸奥守北条小四郎平義時は没した。  62歳   法名・安養院殿得宗禅門。
「吾妻鑑」の記述では、最後に息を引き取るまで南無阿弥陀仏と唱名し続け、縛印を結んでいたと云う。  「誠にこれ順次の往生と云うべきか」 としているが・・・・・。

義時が没すると、直ぐに京都の六波羅探題・嫡男泰時、弟時房に、伝達された。  父が没して四日後の深夜、泰時は京都を出立したが、鎌倉に着いたのは九日目の午後だった。 途中、伊豆北条に立ち寄って、若干の兵を伴ったのである。 鎌倉の稲瀬川から泰時館までは、徒歩でも30分ほどの距離である。 それでも泰時は、その夜由比ヶ浜で一泊している。
稲瀬川・石塔 (鎌倉・由比ヶ浜)

稲瀬川石塔

遅れて京都を発った時房も到着。 また下野足利荘から泰時に呼ばれた女婿の足利義氏も、由比ヶ浜に着いていた。ともに若干の兵を率いていた。翌日、時房・足利義氏と共に鎌倉に入った泰時は、ようやく自館に入った。 若宮大路東側北端の泰時館の郭内には、すでに腹心・郎党が召し出されていた。
尼将軍政子が泰時に、「早く家督を継ぎて、執権たるべし」と命じたが、泰時は時期尚早として、大江広元に相談している、家督と執権職を継承するのに、ためらいがあったと思われる。 父・義時後妻の伊賀の方の陰謀を察知していたのだ。それは弟・北条政村の擁立であったが、政子の説得で、烏帽子親の三浦義村を始め諸将が執権・泰時を認め、事は決した。
しかし、遺領配分で弟たちに多くを与え、政村に厳しい処置をしなかったのも、まだ泰時の立場が弱かったからだし、また泰時がその立場を強化する為であった。
この様な状況で泰時が行ったのが、家令職の創設であった。  被官の尾藤景綱(kagetuna)を初代の家令(karei)・(後の内管領)に任じた。 この職制創設に続き泰時が行ったのは、北条氏家法の制定だった。「家務ノ条々」と云われるが、残念ながら現存しないそうだ、貞永の式目より先だから「日本最初の武家法」になるはずだった。
北条一門に対する惣領としての権力の強化を図ったのだ、加えて惣領家に宗教的・精神的な権威性を得る策に着手したと考えられる。  北条氏の惣領を亡父・義時の法名である「得宗」(tokusou)と呼び、その系統を「得宗家」、所領を「得宗領」とし、一門の庶子家と区別した。    次回に続く

丙申・己亥・辛巳
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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