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鎌倉幕府五代執権・北条時頼

2017.08.10(07:00) 80

**時頼政権の諸政策

**撫民思想と重時の影響

そもそもこの様な鎌倉時代の撫民思想の淵源には、浄土信仰を基にする人間第一主義があったという。  浄土教を深く信仰していた北条重時(sigetoki)こそが、「撫民」の真の提唱者ではないか、と推定されている。

重時の影響を強く受けていたと思われる時頼が、その主張に耳を傾けて政策に取り入れいったことは、当然在り得た事と考える。 時頼が質素倹約を心掛けていたことも、よく知られるところだ。

有名な「徒然草」の段に、時頼の母松下禅尼(matusitazenni)の障子張りのエピソードは、時頼の倹約精神が母の強い影響を受けていたものを示すものである。 「相模守時頼の母は」で始まるこの段は、建長五年(1253)に没する安達義景(yosikage)が登場する事から、時頼の執権時代の話と推定される。

時頼の母松下禅尼(安達景盛の娘)は、時頼成長後は安達氏の別邸内に住んでいたと思われるが、ある日安達氏が時頼を招待することがあって、禅尼自らが敗れた障子の切り貼りをしていた。それを見ていた安達氏の当主で禅尼の兄である義景が、「丸ごと張り替えた方が簡単に出来るし、見栄えもするだろうに」といったところ、禅尼は「今日はわざとこうしているのです。 破れたところを修繕して使い続けるものだという事を、若い人に見せて、心がけてもらいたいのです」と答えたという。

「世を治める道は、倹約を基本とする。禅尼は、女性ながら聖人の心に通じている。天下の政治を取り仕切る人を子に持つだけあって、本当に傑出した人物」と評した。  (吉田兼好)

時頼の政権が過差(kasa)・(贅沢)を禁じる様な政策をとったのは、商工業、特に貨幣の浸透に伴う贅沢を警戒した為であった。
それは御家人の保護と一体のもので、中小御家人が所領を質に入れ米銭を借りる様な事態を防ぐためには、贅沢を禁じ、酒の販売を禁じ、物価を強制的に下げさせるなど、強権を駆使せざるを得なかったのでしょう。


政策として過差の禁止には、時頼個人の志向や、御家人の保護という観点のほかにも、伝統的な政権の在り方を時頼政権が受け継いだという面があった。 過差禁止令そのものは、既に平安時代から繰り返し朝廷によって出されてきていた。 そして、その多くは、「新制」と呼ばれる複数の禁止条例からなる法令の形で出された。
また、過差禁止を含む新制は天変地異を除くために行う「徳政」の一環として出されたものであり、当初公家の新制を取り次ぐだけであった幕府も独自に新制を出すようになったのである。
夏の鎌倉・瑞泉寺の風景(鎌倉・二階堂)
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時頼の御家人保護政策や撫民政策によって、御家人や名主クラスの有力百姓の不安定さは一時的に解消されたが、一般の商工業者・金融業者・下層の百姓などは時頼の「撫民」の対象とはなっていなかった。  結局、時頼の目は、幕府を支えるべき御家人(地頭)達に向けられており、御家人のあるべき姿として撫民が求められ、また彼らの生活基盤を脅かさない限りにおいての「撫民」が行われたのである。  質素倹約の奨励もまた、御家人の経済的安定に直結していた。 それを脅かすような経済活動は、強権的に抑制される運命にあったのである。      次回に続く

丁酉・己酉・己巳
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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