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鎌倉幕府五代執権・北条時頼

2017.08.14(07:00) 81

**出家・その後の政権

**山之内の整備

泰時政権ほどではないが、時頼政権のもとで、都市鎌倉のインフラ整備は行われていた。  例えば、建長二年(1250)には、鎌倉から山之内及び六浦に抜ける(切通し)の再整備が行われてる。  (吾妻鑑)

その山之内は、鎌倉の西北の外側に位置し、山之内荘という得宗領の荘園であった。  山ノ内には既に義時・泰時の別荘が置かれていたが、時頼の代には建長寺が創建され、時頼が最明寺(saimiyouji)・(現・明月院)という持仏堂を伴う別荘を構え、その周辺には時宗・宗政らの別荘も置かれるようになり、急速に重要度が増している。

建長二年(1250)、山之内本郷(横浜市・栄区)にある証菩提寺(siyoubodaiji)の修理再建が幕府によって決定された。 本郷は、建長寺よりさらに北側に位置するが、山之内荘の本来の中心地区と見られる。  証菩提寺再建は、山之内荘の領主でもある時頼の主導で進められたとみられる。

以上の事例から、山之内と鎌倉を結ぶ道路の改修が行われたのは、両者が密接なつながりを持っており、山之内地区の整備に時頼が力を入れていたからと思われる。  山之内と鎌倉は、行政区画としては分かれていても、連続する都市となっていたといえる。

*・・・現本郷は、横浜市・栄区の中心地区として繁栄・・・・・現山之内は、JR北鎌倉駅周辺で、建長寺・円覚寺をはじめ臨済宗の大寺院が居並ぶ宗教都市となっている。


**執権交代

康元元年(1256)、30歳となった時頼に大きな環境の変化が訪れた。    時頼を支え続けた北条重時(sigetoki)が、 八年間在職した連署を辞任し、出家した。 法名「観覚」であった。   (吾妻鑑)

重時に代わって北条政村(masamura)が連署に任命された。   政村は泰時・重時らの異母弟で、かつての陰謀事件に巻き込まれかけたが、泰時の恩情によって処罰をも免がれていた。  この為、以後の政村は得宗家に忠実な政治姿勢をとり、評定衆・引付頭人などを勤め、寄合のメンバーにも加えれていた。

*陰謀事件(伊賀氏の乱)・・・・義時の死後、実母伊賀氏が泰時を排除して政村を執権につけようとしたもの。

兄重時の後任として連署になった時、政村は52歳になっており、一門の長老格という立場にあった。 時頼としては、大いに信頼できる人物を起用したと言える。

当時流行していた赤斑痩(はしか)に宗尊親王(munetaka)がかかり、時頼も、さらに時頼の幼女も同じ病気にかかったようだ。ほどなくして宗尊親王も時頼も回復、治癒したが、時頼の娘は祈祷の甲斐もなく亡くなった。(吾妻鑑)

しかし、この年の十一月またしても時頼は赤痢にかかってしまう。 暫くは小康状態を保っていたが、この機会をとらえて時頼は、ついに執権職・武蔵国務・侍所別当・鎌倉小町の邸宅(幕府・執権邸)などを北条長時(nagatoki)・(重時嫡男)に譲った。
鎌倉幕府・執権邸跡・現宝戒寺 (鎌倉・雪ノ下)
北条氏・執権邸跡石塔
宝戒寺・参道
宝戒寺

本来なら嫡子・時宗に譲るべきであったが、まだ六歳と幼少であったため、「眼代」(代理人)として暫く譲ったのである。そして、翌日には最明寺で出家した。 ときに、三十歳であった

出家の戒師は蘭渓道隆、法名は「覚了坊道崇」(dousuu)であった。 (吾妻鑑)

直前の二度の病気や近親者の死去は、時頼に引退・出家のきっかけを与えたが、それはあくまできっかけに過ぎなかった。 すでに七月以前に出家の準備として最明寺を建立していた事からも、病気以前に時頼が引退・出家を計画していたことは明らかである。

しかし、実際には執権引退後も時頼は幕府の実権を握り続けるので、執権の交替は形式的なものであった。  時頼の真の目的は、幼少の嫡子時宗をいち早く後継者に指名し、時宗への権力移譲を平穏に実現する事にあったのである。

時頼は、朝廷における「院政」と同じ状況を作り出そうとしていたという事になる。 ただ、引退・出家して政治的な緊張から逃れ、より自由に禅の修行に取り組みたいという気持ちも多少は有ったかも知れない。 (仏教者としての顔)  次回に続く

丁酉・己酉・癸酉
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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