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鎌倉幕府五代執権・北条時頼

2017.08.18(07:00) 82

**出家・その後の政権

**新執権・北条長時

新しく執権となった長時は、時頼を長年補佐した北条重時の次男であったが、兄・為時(tametoki)に替わって家督を継いだ人物である。 六波羅探題を経て、この年の六月に評定衆になっていた。 執権に就任した時点で二十七歳であった。

「吾妻鑑」 から執権としての長時の顕著な活動を窺うことは出来ないが、在任中に発給された文書などから推察して、長時が、執権として忠実に事務処理を決裁していたことが解るという。

時頼は、権力欲が少なく、着実に事務処理を行う事の出来る人物、将来の時宗の権力継承に関して障害とならないような人物を、後継の執権に選んだのであった。

ところで、 時頼の「道崇」(dousuu))という法号は、後世に大きな影響を与えた。  時頼以前の得宗の法号は、義時(yositoki)が「観海」(kankai)、泰時(yasutoki)が「観阿」(kana)、経時(tunetoki)が「安楽」(anraku)であったのに対して、時頼以後は時宗(tokimune)が「道杲」、貞時が「崇演」、高時(takatoki)が「崇鑑」で、何れも時頼の法号の一字をとっっている。
また、もともとは義時の号であったとされる「得宗」(tokusou)の語は、実は「徳崇」(tokusuu)で、時頼が義時を顕彰するために贈った禅宗系の追号(oigou)ではないかと推測されている。

文応元年(1260)、嫡男・北条時宗が小侍所の別当に任命された。  小侍所は、将軍御所警固や外出の際の供などを差配する部署である。 小侍所における時宗の活動を記した史料はないが、別当の北条(金沢)実時(sanetoki)と並んで政務を執行しているので、おそらくは別当の補佐のような役割だったようだ。   時宗は十歳、実時は三十七歳であったから、時頼の意向により時宗が政務見習のために小侍所に入った事は明らかである。

弘長元年(1261)、時頼は、将軍の鶴岡八幡宮参詣の御供に関して、子息の序列を定めた。  それによると、時宗(tokimune)・宗政(munemasa)・時輔(tokisuke)・宗頼(muneyori)の順であった。 (吾妻鑑)
年齢順では長子・時輔を、正妻の子時宗・宗政の下に位置付け、後継者争いが起きないように時宗の優位性を強調した。

**得宗専制への傾斜

時頼の政権期には「得宗」への権力集中という動きも見られる。 寄合という得宗を中心とする私的な会議が出現したこともその兆候の一つであるが、時頼期の寄合は、親族と側近被官のみから構成される得宗家の私的会議にとどまっていた。
一例として、その私的会議で、皇族将軍の下向の申請が、評定による会議を省略して時頼と重時の独断専決で進められた事があげられる。

康元元年(1256)に連署重時、執権時頼が相次いで辞職したものの、その後の椀飯(ouban)沙汰人は首位時頼・二位重時で、幕府内の実力者の地位はもはや執権・連署という職名に依存しない体制となったという。
この時事実上、政権を政村・長時に譲って出家したが出家の後もすべての政務を取り仕切ったようだ。
鶴岡八幡宮・源氏池のハス
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こうした得宗専制への傾斜は、先に見た時頼政権の御家人保護政策と矛盾するようにも見える。  専制の進展に伴って発生する下からの抵抗を押さえるための懐柔策として御家人保護立法が与えられたと考える。  一方、御家人保護政策と北条氏による要職の独占によって御家人を北条被官化し、得宗を頂点として幕府をタテに編成替えしたのが得宗専制の本質であったようだ。

しかし、何れにせよ幕府の根幹を支える御家人をしっかりと幕府に結び付けようとする意図があった事は確かである。   次回に続く

次回からの予告

〇  1・・・蘭渓道隆と建長寺
〇  2・・・浄土と大仏
〇  3・・・叡尊の下向と律
〇  4・・・臨終往生

丁酉・己酉・丁丑
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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