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鎌倉幕府五代執権・北条時頼

2017.08.27(08:38) 84

**蘭渓道隆と建長寺

**建長寺建立に着手

建長元年(1249)、時頼は本格的な禅宗寺院である建長寺の建立に着手し、蘭渓を開山と定めた。  建長寺の場所は、鎌倉と武蔵方面との出入り口である小袋坂(巨福呂坂)に位置する境界の地で、もともとは刑場であり、地蔵菩薩が安置されていた。

建長五年(1252)11月、建長寺の主だった堂が完成し、落慶供養が行われた。 蘭渓が導師を勤めた。 仏殿には丈六の地蔵菩薩像が本尊としてまつられ、周囲には千体の地蔵菩薩像が安置された。供養願文は藤原茂範(jsigenori)が草案をまとめ、時頼が清書した。

建長寺の創建は、当時から日本における禅宗興隆の一大画期と位置付けられ、「時頼が建長寺を建立した事で、中国の僧も多数やってきて寺院は中国語が飛び交う中国の寺院ようだった。 禅宗の隆盛は全て時頼おかげである、と当時の人々は時頼を栄西(eisai)の生まれ変わりだとも賞賛した。

*栄西(eisai)・・・・日本臨済宗の祖 幕府の庇護を受け寿福寺・京都建仁寺の開山となる。

蘭渓は、建長寺に中国(宗)の禅院方式をそのまま導入し、法語や規則を与えて厳格な禅風を起した。 「大覚禅師・法語規則」が伝わり、細やかな生活の規則が定められた。

*大覚禅師・法語規則・・・・建長寺に現存(国宝)

鎌倉・瑞泉寺   2017・盛夏
鎌倉・瑞泉寺
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ただし、建長寺の建立によって時頼(幕府)が、従来依存してきた天台・真言などの仏教と決別したわけではなく、禅と天台・真言が別の存在意義を持って、役割分担をしながら存続したのである。

弘長二年(1262)、蘭渓道隆は建長寺を離れて京都・建仁寺の住職となり、替わって兀庵普寧(goxtutan・funei)が建長寺住職となった

蘭渓は文永二年(1265)には山之内で時頼の三回忌法要の導師を勤めているので、それ以前には鎌倉に帰っていたことになる。 建仁寺住職を三年勤めて退き、建長寺に戻ったものであろう。 (吾妻鑑)

時頼最後の時、蘭渓はまだ鎌倉に帰っていなかったことになるが、時頼の生涯に大きな影響を与えた人物である。 次回に続く

丁酉・己酉・丙戌
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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