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鎌倉幕府五代執権・北条時頼

2017.08.31(07:00) 85

**禅宗への帰依

**道元との出会い

*ここで予定を変更して、時頼が禅の教えに関心を持つきっかけとなった道元・兀庵の二人の禅僧との出会いについてレポートします。

時頼と交流のあった禅僧というと、既に触れたように、建長寺の創建という大事業との関係から、建長寺開山に迎えられた蘭渓道隆の存在が目立つようである。

しかしながら実は、時頼が最初に本格的な禅に触れるきっかけとなったのは、曹洞宗の祖である道元(dougen)との出会いであった。 蘭渓道隆の来日の翌年にあたる宝治元年(1247)、越前永平寺を発って鎌倉へ行き、「檀那・俗弟子の為に説法」 したのち、翌年永平寺に戻っている。   道元四十八歳、六か月程の滞在であった。

道元はかつて 「仏法興隆のために関東へ下向すべきだ」 と勧められたとき 「もし仏法を学ぶ意思があれば、山川を超えても自ら来るべきで、意思のない者にこちらから出向いて説いても無駄だ」 として断っており、鎌倉行きは本意ではなかったようだ

道元の鎌倉行きの主な動機は、永平寺の檀那である波多野義重(yosisige)の依頼に応えたものと見られる。  義重は幕府の御家人で、当時鎌倉に居住していた。・・・・一説に道元は時頼の招きによって鎌倉へ赴いたという説もあるが、道元自身の記録に時頼招請の事実が全く見られず、権勢を嫌う道元の立場からも、時頼の招きは考えにくい。

さて、時頼は直接鎌倉に招いたわけではなかったが、名高い禅僧の鎌倉滞在を知り、その教えを求め受け入れられ、道元は菩薩戒(bosatukai)を授けたという、時頼の他にも、多くの僧侶・俗人が道元から戒を受けた。  さらに時頼は、道元の為に寺院を創建するので鎌倉に留まるようにと要請したが、道元は 「越前の小寺院(永平寺)にも檀那があり、大事にしたい」 と固く辞退したという。

道元との面談で、時頼は具体的にどのような教えを乞うたのだろうか、・・・後の時代の記録に道元が時頼に、「世に異変があれば、天下を捨てよ」と勧めたという話が伝わる。    おそらく時頼は、幕府の主導権を巡って起こる政争を鎮めるためにはどのような心掛けが必要かを、道元に尋ねたのであろう。  それに対する道元の答えは、 「権力者の地位に執着するな」 というようなものであった。  時頼が道元から禅の教えを学んだ一例だが、断片的伝承からはよくわからないが、禅の教えに関心を持つきっかけとなったことは確かであろう。
臨済宗・建長寺派本山  建長寺三門
建長寺・山門
建長寺創建以前・山之内刑場址 (現建長寺・塔頭回春院付近)
建長寺・刑場址
塔頭・回春院 全景
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**兀庵普寧(gotutan・funei)の来日

蘭渓に続いて時頼に大きな影響を与えた禅僧に、兀庵普寧がいる。  文応元年(1260)、64歳で中国より日本に渡った。 まず博多・聖福寺にはいり、暫くして京都・東福寺へ移り、さらに兀庵の評判を聞いた時頼によって、鎌倉建長寺に迎えられた。

時頼が兀庵普寧を鎌倉に招いた背景には、禅の修行が進むにつれて、時頼が蘭渓の指導に満足しなくなってきたという事情があったらしい。   (蘭渓との確執)

来日の翌々年、弘長二年(1262)に蘭渓は建長寺を去って京都建仁寺の住職となり、替わって兀庵が建長寺住持となった。  この後も、時頼は兀庵の許を訪れて教えを受け、兀庵も時頼の仏教に対する態度を高く評価している。   (仏教者・北条時頼)

時頼は兀庵普寧の指導により、この年の十月十六日の朝、悟りを得る。 兀庵の 「天下に道はただ一つであり、聖人の心もただ一つである」 という助言を受けて、時頼は、 『森羅万象、山河大地のすべてが、自己とは区別ない一体のものだ」 と語り、悟りの境地に達して全身から汗を流した。  時頼は、 「二十一年の間、朝夕望み続けて来たことを、この一瞬にすべて手に入れた」と感涙を浮かべ、九回礼拝を重ねている。  兀庵は仏前に焼香して、時頼に法を嗣ぐ者と認めた。、

時頼は相当熱心に禅に帰依していたが、禅に何を求めていたかについては、諸説がある。
禅に含まれる儒教的な教養(治世者の道徳)の習得が目的だったとする説が主流だ。
それに対して、為政者としての資質修養の為に禅を受容したが、禅僧の教えに接する中で自己の悟りの獲得と一致させていくようになったと見られる。

それに対し、時頼の禅の修行は、結果的に儒教的修養に役立ったが、自身の心の平安回復が本来の目的であったと主張する研究者もある。
時頼の何事にも全力を注ぎ込む性格から考えて、儒教的教養と、精神の平安としての禅の悟りと、双方を供に求めていたのではないだろうか。   中でも、やはり心の平安を求める気持ちの方が勝っていたように感じるが・・・・・・。     次回に続く

丁酉・己酉・庚寅
**禅宗への帰依

**道元との出会い

予定を変更してもう少し禅宗に関してレポートします。

時頼と交流のあった禅僧というと、既に触れてきたように、建長寺の創建という大事業との関係から、もっぱら建長寺開山に迎えられた蘭渓道隆の存在が目立つようである。  しかしながら実は、時頼が最初に本格的な禅に触れるきっかけとなったのは、曹洞宗の祖である道元との出会いである。

蘭渓道隆の来日の翌年宝治元年(1247)、道元は越前永平寺を発って鎌倉へ行き、「檀那・俗弟子のために説法」 したのち、翌年永平寺に戻っている。  道元四十八歳で半年ほどの鎌倉滞在であった。

道元はかつて「仏法興隆の為に関東へ下向すべき」 と勧められたとき、 「仏法を学ぶ意思があれば、山川を超えても自ら来るべきで、意思のない者にこちらから出向いて説いても無駄だ」 として断っており、鎌倉行きは本意ではなかった。

道元の鎌倉行きの主な動機は、永平寺の檀那である波多野義重(yosisige)の依頼に応えたものと見られる。 義重は幕府の御家人で、当時鎌倉に居住していた。  従来、時頼の招きにより鎌倉へ赴いたとされるが、道元自身の記録には時頼招請の事実が全く見られず、権勢を嫌う道元の立場からも、時頼の招きによる鎌倉行きは考えにくい。

さて、時頼は直接道元を鎌倉に呼んだわけではなかったが、名高い禅僧が鎌倉に滞在しているとの情報をえて、道元から教えを受けた様だ。  道元は時頼に菩薩戒を授けた
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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