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鎌倉幕府五代執権・北条時頼

2017.09.08(06:30) 87

**叡尊の下向と律

**北条(金沢)実時・関東下向を要請

銅像大仏の完成が真近に迫った弘長元年(1261)10月、見阿弥陀仏(ken・a)という律僧が金沢実時(sanetoki)の使者が叡尊を訪れ、 「一切経を西大寺と武蔵・称名寺に寄付するので、関東に下向してほしい」 という書状を持参した。  叡尊は多忙を理由に断り寄付も辞退したが、下向の有無をに関わらず寄進します、という事で後日西大寺に一切経が届いた。

さらに、12月、関東に下っていた叡尊の弟子の定舜(jiyousixyun)が関東から上ってきて、実時の言葉を伝えたが、それによると時頼も実時に同心して、叡尊の下向を望んでいる旨の言葉だった。

さらに翌年二月に、再び見阿(ken・a)が実時の書状を叡尊の許に持参し、それには時頼も仏法を興隆し自ら受戒するためにも下向を願うと記されており、やむを得ず叡尊は了解したのである。
先に実時の言葉を伝えた定舜は、実時の発願で中国に渡り、一切経を得て帰国した人物でもあり、叡尊下向以前にすでに金沢氏が西大寺流律宗に帰依していた事は確実とみられる。

また、叡尊の一番弟子忍性(ninsiyou)も、建長四年(1251)に関東に赴いて、常陸の三村寺(mimuraji)を拠点に活動し、さらに弘長元年(1261)には鎌倉の新清凉寺釈迦堂を新たな拠点として獲得していた。

*新清凉寺・・・・扇ヶ谷海蔵寺付近の谷戸にあったが、現在廃寺となっている。

忍性らを通じて師叡尊の高名を聞いた実時らが叡尊を招こうとし、時頼もそれに賛同したと考えられる。
弘長二年(1262)二月、62歳の叡尊は、弟子の定舜(jiyousiyun)・盛遍(jiyouhen)・性如(siyouniyo)・性海(siyoukai)らを従えて奈良を出発した。以後の一行の様子は、弟子性海の旅行記「関東往還記」 に詳しい。

「関東往還記」 の時頼関係の記述を中心にリポートする。   
鎌倉に到着した叡尊は、西御門の天野景村(kagemura)の屋敷に落ち着いた。 夜になって実時が訪れ、「出家はしないが、自分を弟子に加えてほしい。 また、時頼も御下向を大変喜んでいる」と伝えて帰った。 

*天野景村・・・・実時の母方の叔父

大蔵御所・西御門(nisimikado) 鎌倉・西御門
西御門

暫くして、亀ヶ谷(kamegayatu)の清凉寺釈迦堂に移り、早速同所で梵網布薩(bonmou・fusatu)という仏教儀礼がおこなわれ、叡尊の説法を実時一族とともに時頼の妻(重時の娘)が傾聴した。

月が替わった三月、時頼本人から実時を介して叡尊に逢いたい旨伝えられたが、叡尊は「しばらく、日をおいて、特に急がずお会いしたい」 との返事であった。 十日程して時頼は 「対面したいが、自分から出向くとなると警備が面倒ですし、気軽に私宅にお招きするのも恐れ多く、どうしたらよいか困り果てています」 という言葉を、実時が伝えています。  遠回しながらも催促するような時頼のメッセ―ジに、叡尊も押し切られた格好で 「一人の為に出向くのは本意ではないが、なかなか難しい状況なので、今回は特別に出向きましょう」 と返答した。
そして、この日の夕刻に時頼の別荘内にあった最明寺を訪ね、数時間にわたって時頼と対談し、深夜になって帰宿。

*最明寺(saimiyouji)・・・・時頼が出家準備の為に建立した寺院。 (現・明月院)

明月院・方丈 (鎌倉・アジサイ寺)    (鎌倉・山之内)
明月院・方丈

数か月後、時頼の使者が叡尊のもとへ来て、「戒を受けたいので、明日参上したいと存じます。もし都合が悪ければ、都合の良い日をお知らせください。また、受戒の時にはお布施を治めると世間では云われていますが、本当はどうなのですか」 と伝えた。
これに対して、 「布施の事は広く言われていますが、私の教えにはないことで、誤まった説です」 と回答している。

この間のやり取りや対談を通じて時頼はすっかり叡尊に心酔してしまったらしく、将軍の御前で 「叡尊の人徳と素晴らしい行いは、尋常ではありません」とあれこれ賞賛したので、、人々はますます競って叡尊の許に集まったという。

叡尊の下向と時頼をはじめとする幕府有力者の帰依をきっかけに、関東での西大寺流律宗の活動は飛躍的に盛んとなり、、やがては極楽寺に拠点を移した忍性がその中核を担っていくのであるが、それは時頼没後の事である。

時頼が叡尊に帰依したのは、偶然にも幼名が 「戒」 寿であった事に象徴されるように、時頼には律のような禁欲的側面の強い教えが性にあったのかもしれない。 しかしながら、叡尊から戒を受けようと思ったのは単にそれだけではなかったようである。
後に叡尊が語ったところによると、「関東で最明寺の禅門(時頼)に逢った時、 斎戒を受けたのも理を明らかにするためです」 と言われた。
この人は禅の修行をして常に悟りを得ようとしているので、この様な言葉があったのであろう・・・・・・。

禅を中心としつつも、様々な仏教の教えに耳を傾け、この世で何が正しいかを見極め、精神の平穏を回復しょうと努力していたのであろう。  
次回に続く

丁酉・庚戌・戊戌
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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