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鎌倉幕府五代執権・北条時頼

2017.09.12(06:08) 88

**臨終往生

*「吾妻鑑」 による臨終の様子

叡尊の下向に鎌倉が沸き返った翌年、弘長三年(1262)は、文字通り波乱の年となった。 八月豪雨と共に大風が吹き、御所や鎌倉中の民家に大きな被害が出た。  由比ヶ浜(和賀江島)に着岸していた数十艘の船が、破損し、漂流して沈没した。 (吾妻鑑)
日本最古の築港とされる・和賀江島跡  (鎌倉市・材木座)
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和賀江島から稲村ケ崎・江の島を望む (対岸・稲村ケ崎)
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かねてより幕府が準備を進めていた将軍・宗尊親王の上洛が、大風による農作物被害への負担軽減させることが必要となった為、延期になった。    (吾妻鑑)
さらに、この月の末に由比ヶ浜では沈没する船や、打ち寄せられた死人が無数に見られた。 九州方面から年貢を運搬してきた船のうち、60艘が伊豆の海を漂流した。  (吾妻鑑)

宗尊親王の上洛延期が決まった八月二十五日、時頼の病気回復の為に、時頼邸(山之内最明寺の別邸)で大般若経の真読が行われた事が 「吾妻鑑」 に記されている。 「吾妻鑑」はこの年の三月に信州・善光寺に土地を寄進した記事以降の時頼に関する記事が無い・・・。あるいはすでに体調を崩していたのかもしれない。

十一月になって時頼の病気の悪化を示唆する記事が登場する。  病気回復のための様々な祈祷が行われた。というものである。
まず、この日に等身大の千手観音菩薩が供養された。  この日以前に作り始めたはずであるから、時頼の発病もこの日よりかなり前、という事になる。

「吾妻鑑」 によれば、延命護摩法要が行われ、北条義政(yosimasa)が等身薬師如来像を作らせ供養し、像を携えた供養僧が三島社に参籠するために出発したと記している。

しかし、祈祷の甲斐なく、十九日には危篤に陥り、最明寺に付属する北亭に移ることを望んだという。 心静かに臨終を迎える為と云われる。 被官の尾藤太景氏(takauji)と宿屋左衛門尉に命じて、見舞いを禁止させた。 翌朝時頼は最明寺北亭に移ったが、前日の命令を二人が固く守った為、誠に静かであった。 看病のため近侍する7人の被官の他は、誰も出入りしなかった。

十一月二十一日、戊刻(午後8時頃)、時頼は最明寺北亭で臨終を迎えた。  (37歳)であった。
「吾妻鑑」が伝える臨終の様子は、次のようである。  時頼は、袈裟を着て椅子に上り、座禅をし、少しも動揺する気配を見せず、「業鏡高く懸ぐ三十七年一槌に打砕して、大道端担然たり 」 という遺偈(遺言)を唱えて亡くなった。    次回に続く

**次回は最終回の予定・・・・・・そして次のテーマは北条時宗の予定です。

丁酉・庚戊・壬寅
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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