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鎌倉幕府八代執権・北条時宗

2017.09.21(19:00) 90

**源平合戦

**貨幣経済との戦い

鎌倉幕府は、源平合戦の最中に誕生した。  必然的に鎌倉と鎌倉幕府とには、源平合戦の影響が種々残された。
若宮大路の段葛は、妻北条政子の安産を祈って頼朝が築かせたものと言われ、確かに鎌倉幕府の公的記録である「吾妻鑑」には、その様に記されている。  しかし最近の発掘調査では、段葛の西側は、東側より60cm~90cm程低く、西側は湿原地だったことが判っている。
段葛が築かれたのは、源平合戦最中の養和二年(1182)3月だった。  まだ平家側の軍勢が鎌倉に進入してくる危険も考えられる時期であった。 頼朝は万一に備えて平家側が陣取るに違いない段葛の西側を、東側から射易いように低くし、動きにくいように泥湿地を残したと云われる。   つまり、段葛は一種の軍事的防衛線であった。 鶴岡八幡宮の参道というのは,まさに偽装にすぎない事になる。
段葛石塔 (鶴岡八幡宮参道・二の鳥居付近)
段葛
二の鳥居付近  現在の段葛はここから始まる。(初期には下馬付近までと)?
二の鳥居
この様に、鎌倉と鎌倉幕府とには源平合戦の影響はまだ残っていたのです。   
その源平合戦の本質を巡って、これまで数多くの考えが提示されてきている。  まず、源氏と平氏の戦い、次に東国と西国の戦い、さらに騎兵と水軍の戦い、曰く武士と公家の戦い、また源氏の平氏に対する復讐戦、或は武士政権樹立のための合戦等の説である。

しかし、平家側に源氏一族の信太義広(yosihiro)(頼朝叔父)等がいた以上に、頼朝軍には三浦・畠山・梶原・北条・千葉・上総等々、平家の支族が参加していた。  さらに西国がすべて平家側だったわけではなく、河野通信(mitinobu)・臼杵惟隆(koretaka)・緒方惟栄(korehide)・佐賀惟慈(koresige)ら西国武士で、源氏方に付いた者もあり、大庭・俣野・伊東・長尾ら東国武士でありながら平家側に味方した者もある。
また源氏方は騎馬が主体だったとしても、水軍が無かったわけではない。 三浦水軍・北条水軍などもあり、壇ノ浦海戦では、三浦水軍が源氏軍の先頭に立っている。

また源平合戦のある一面の指摘として、貨幣を巡る問題を挙げる研究者もある。 源平合戦には、貨幣経済の可否をめぐる合戦という一面が有ったのではないかと思われるのである。

六波羅平氏政権を樹立した平清盛(kiyomori)が、南宋で使われていた宋銭を、大量に日本に持ち込んだ事はあまり知らされていない。  しかし、清盛は宋銭を大量に持ち込んでおり、それがもたらした影響は極めて大きかった。  頼朝が挙兵して源平合戦が始まる前年の治承三年(1179)、京都では身分の高きも低きも、 「銭の戦い」 にかかり、みな銭を欲しがったようだ。  これは畿内近国にそれほど多く多量の宋銭が普及したことを示している。

治承三年に西国に普及していた宋銭も、東国にはまだ伝っていなかった。むしろ東国では、銭に対する拒絶反応があったのではないかとすら思われる。   その翌年に源平合戦が始まっていることは、このことを暗示しているのではなかろうか。
つまり貨幣経済という面から見ると、源平合戦は後進の東国が貨幣経済に反対し、これに賛成する先進の西国を、暴力的に退けたという構図が見える。

いずれにしても源氏将軍三代の間は、東国に宋銭は入らなかった。  古代以来の自給自足の経済が原則で、若干の物々交換が行われる程度が、東国では一般的であった。

しかし、源平合戦後、平家側から得た五百余ヵ所の所領はほとんど西国であった。  これらを論功行賞された東国武士が、西国に出向く機会も増え、当然のことながら西国での習慣が流入したと思われる。

この様な状況が、銭の便利さを認識させた。  京都や鎌倉に行くにも、銭さえ持っていれば、何でもできた。 平常から年貢として所領で吸い上げた米や布は、銭に換えておく方が良かった。  こうして銭は、次第に東国にも普及していく。    次回へ

丁酉・庚戊・辛亥
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