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鎌倉幕府八代執権・北条時宗

2017.09.24(07:00) 91

**鎌倉幕政の転換

**源氏将軍の独裁制

源平合戦が始まった頃、源頼朝は東国武士に担ぎ出されただけの存在だった。  石橋山合戦で敗北、山中を逃げ回った頼朝は、消沈しその立場は極めて不安定な弱いものであった。 しかし、その直後、頼朝は急速に成長する。 敗北から一か月後、隅田川の頼朝の本陣に二万騎を率いて、上総介広常(hirotune)が参陣した。  すると頼朝は、「今頃になっての遅参、不審在り。 しばらく外にあって、沙汰を待て」 として、長時間広常を待たせて、ついに広常を心服させたのは、この時の事である。

頼朝は、その後もますます政治的に成長していった。  寿永二年(1183)暮れ、京都に駐屯していた木曾義仲〈yosinaka〉勢の乱暴振りに困った後白河法皇(gosirakawa)は、再三頼朝の上洛を促した。  法皇の再度の上洛要請に頼朝も、そろそろ源平合戦に決着をつける必要を感じていた。    (西国出撃論)

しかし、この出撃論に反対したのが参陣に遅れた上総介広常であった、彼は東国割拠論を主張していたのである。    (東国割拠論)
頼朝が主張した西国出撃論を、広常は多くの御家人たちのいるところで、堂々と批判したのである。 直後、頼朝の意を受けた梶原景時(kagetoki)によって広常は誅殺された。

またたく間に東国割拠論は鳴りをひそめ、西国出撃論がこれに取って代わった。  源範頼(noriyori)・(頼朝弟)・義経を将とした幕府軍が、出撃上洛していった。

その後も頼朝の方針に盾ついた者たちに対する誅殺事件は、二度、三度と続いた。  甲斐源氏の一条忠頼(tadayori)、同じく安田義定(yosisada)、義資(yosisuke)父子らである。  その延長線上に、叔父の源行家(yukiie)、弟の義経(yositune)などがあった。

こうして頼朝に盾突くような者は、幕府御家人のうちには一人もいなくなった。 かつて頼朝は、東国武士たちに担がれた存在だった。 その頼朝は今や東国武士たちを、しっかりと掌中に収めていた。鎌倉幕府の最初の政治形態である 「源氏将軍独裁制」 が、ここに現出したのです。
鎌倉・鶴岡八幡宮本殿
八幡宮本殿
八幡宮・一の鳥居から本殿を望む
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ここで注意しておきたいのは、頼朝の頃の 「将軍独裁制」 では、御家人たちが頼朝を畏怖していただけではなかったという事である。 「分け隔ての無い」 「身近な」 「親密な」 主従関係が成立していたと思われるのです

また、次のような逸話も残される。  病気になった御家人加藤次景廉(kagekado)を、見舞った事。  伊豆以来の御家人安達盛長(morinaga)の館を頼朝・北条政子夫妻が訪れたのは一度や二度ではなかった。  主だった御家人たちと共に、由比ヶ浜で流鏑馬(yabusame)などをした事。 三浦の海辺では舟遊びに興じた事もある。
頼朝時代の 「将軍独裁制」 は威勢厳粛、理非断決という強さと共に、御家人たちとの間の相互の信頼が、根底にあったと考えられる。

次に二代将軍源頼家(yoriie)、三代実朝(sanetomo)の時代もまだ 「将軍独裁制」 は踏襲された。  御家人たちとの信頼関係は薄れてはいるが、独裁権力は握っていた。  
頼朝・頼家・実朝と続いた源氏将軍三代の間、鎌倉幕府の政治形態は、基本的に 「将軍独裁制」 だったと言うことが出来る。 そしてこの間、頼家の時期に宿老13人の会議が成立している事、実朝の時期に執権・北条義時(yositoki)の権力が強化しつつあった事の二点は、次の「執権政治」 の萌芽として見るべきかも知れない。

しかし、承久元年(1219)正月二十七日、将軍実朝が鶴岡八幡宮で暗殺され、四代将軍として京都から九条頼経(yoritune)が鎌倉に入部した時、事態は急転した。  僅か三歳の頼経に独裁的権力を振るう事など不可能だったからである。  こうして鎌倉幕府の最初の政治形態であった 「将軍独裁制」 は崩れ、幕を下ろした。 代わって成立したのは 「執権政治」 だった。     次回へ

丁酉・庚戊・甲寅
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