FC2ブログ

タイトル画像

鎌倉幕府八代執権・北条時宗

2017.09.28(07:00) 92

**鎌倉幕政の転換

**執権政治への移行

初期の執権・北条義時(yositoki)(時政次男)には、さほどの権力があったわけではなかった。  むしろ源氏三代の 「将軍独裁制」 に抑え込まれていた一般御家人が、重石がなくなったので、次第に台頭してきたのである。

その様な意味で、四代将軍・九条頼経(yoritune)が鎌倉に入部してから二年間は、 「執権政治」 とはいうものの有力御家人たちの寄合所帯に過ぎないものであった。
この間、義時は、幼い将軍頼経を自館に住まわせて、 自分は 「将軍家の政務ノ代官」 という立場を以て辛うじて権威を保持するだけの存在だった。

ところが承久三年(1221)五月、承久の乱が起った。 この時の後鳥羽上皇(gotoba)の討幕の院宣が、 「早々と陸奥守平義時朝臣の身を追悼せしむべし」 と、義時一人を名指ししており、しかも鎌倉幕府方が圧倒的な強さで京都朝廷側を破り去ったことから、幕閣における義時の地位は、飛躍的に上昇し強化された。 それ以降の鎌倉幕府の運営は、執権義時が主導すようになった。

承久の乱に勝利したことによる結果は、それだけの事では終わらなかった。 京都朝廷と鎌倉幕府との立場が逆転してしまったのです。  乱以前は、天下の政治は京都朝廷で、幕府は軍事警察という方面だけを担当していた。
乱後、幕府は天下の政治をも担当することになったのです。

**執権政治の完成

嘉禄元年(1225)、義時の嫡男・北条泰時(yasutoki)が評定衆制度を創始して、合議制という柱を立て、貞永元年(1232)には、関東御成敗式目51条(貞永式目)を制定して、 「法治主義」 という柱をも立てたのである。 

以降の 「執権政治」 は、合議制と法治主義とで成り立つことになった。 言わば 「法律に従って話し合いで」 という事である。

承久の乱で敗れて隠岐の島に配流されていた後鳥羽上皇の赦免を、京都朝廷が幕府に求めてきたことがある。 この時幕府の執権・北条泰時は、「家人(幕府御家人)ら、一同に計る」として、これを拒絶している。
執権泰時は、自分の個人的判断で決定回答したのではなく、御家人たちの意向に従って動いたのである。 これがこの時期の執権であった。決して専制的権力者ではなかった。 御家人たちの代表者というのが、 「執権政治」 での執権の地位であった。

嘉禄元年、四代将軍九条頼経(yoritune)は、新造なった宇都宮辻子御所に入った。  このことは、画期的な事であった。  源氏将軍三代は、大倉御所に居住していた。  頼朝法華堂の南側の地で、現在は清泉小学校がになっている。
宇都宮辻子御所址 (鎌倉市・小町)
宇都宮辻子御所

頼経は、当初大蔵御所近くの北条義時館に住んでいた。現在の別れ道付近である。  何れにしても今までの将軍居所は、鎌倉の東北側、金沢街道に面していた。  それが、若宮大路東側に移ったのである。

四代将軍頼経の居所が移ったという事は、それだけの事ではなかった。それまでの鎌倉では町反歩制という農村的丈量が用いられてきた。 それが、丈尺制と戸主制(henusi)という都市型の単位に代ったのである。

ここに鎌倉は、これまでの農・漁村的な地域であったのだが、ついに本格的な都市に成長することになる。 「執権政治」 が完成したことを、まさに象徴しているかのようであった。

「執権政治」 を完成させた北条泰時〈三代)は、仁治三年(1242)6月、六十歳で亡くなった。 泰時の二人の息子、時氏(tokiuji)・時実(tokizane)は、すでに没していた。  家督と執権はは、故時氏の嫡男北条経時(tunetoki)が嗣立した。 十九歳だった。 次回へ

鎌倉・秋の佇まい三点・・・・・宝戒寺・海蔵寺・円覚寺
DSCN3294.jpg

DSCN3291.jpg

DSCN3216.jpg

丁酉・庚戊・戊牛
スポンサーサイト





鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


<<鎌倉幕府八代執権北条時宗 | ホームへ | 鎌倉幕府八代執権・北条時宗>>
コメント
コメントの投稿













管理者にだけ表示を許可する