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鎌倉幕府八代執権北条時宗

2017.10.02(07:00) 93

**鎌倉幕政の転換

**将軍派と執権派の対立

何れにしても幕府は、全体として 「鎌倉時代中・末期の社会変動」 に対応を迫られ苦悩し、その中から幕府は二つに割れてゆくことになる。・・・・

将軍に権力を付与して 「将軍独裁制 」を復活させ、その権力によって 「社会の大変動 」を強圧的に抑え込もうと考えたのが、ひとつ 「将軍派 」だった。 いささか反動的だったと言えるかも知れない。
これに対して執権の権力を強化して、 「社会の大変動 」に柔軟に対応して行こうというのが、一方の 「執権派 」だった。 「将軍派 」が反動的というなら、「執権派 」は進歩的だったとも言えるかも知れない。 二派の対立は、様々な要因が絡まって、極めて複雑な様相を呈し始めた。

三代執権・泰時の執権在任十八年の間に、鎌倉幕閣には新しい政治勢力が成立し、次第に台頭しつつあった。 大仏流(osaragi)・佐助流(sasuke)・極楽寺流(gokurakuji)・金沢流(kanazawa)などのいわゆる北条一門である。 諸国の守護や幕閣の評定衆や各種の奉行などに就任して、侮る事の出来ない勢力になっていた。 そして義時➡泰時➡(時氏)➡経時と続く北条本宗流を 「得宗(tokusou)」 と仰ぎ、その得宗経時を中心として、「執権派 」を形成したのです。

これに対抗したのが、「将軍派」 だった。 反北条一門で結集した 「将軍派」 は当然の結果として一般御家人から成り立っていた。  その中心になっていたのは、一般御家人の代表格の地位にあった三浦泰村(yasumura)だった。   三浦氏は相模国内のみならず、東国きっての大豪族であった。
三浦氏居城衣笠城本丸跡 (横須賀市・衣笠)
衣笠城址本丸跡
衣笠城址
こうした両派の対立は、将軍九条頼経対執権北条経時、三浦一族対北条一門という構図になったが、それだけではなかった。  三浦泰村の伯母と結婚していた上総・下総両国の豪族、千葉介秀胤(hidetane)は三浦方、「将軍派」だった。 泰村の妹を妻にした常陸国の豪族・関政泰(masayasu)も「将軍派」だった。  しかし、安達義景(yosikage)・泰盛(yasumori)父子は一般御家人に属するが「執権派」 だった、義景の妹、松下禅尼が、経時の生母だったからである。

また北条一門でありながら 「将軍派」 になった者もある。 泰時の次弟・朝時(tomotoki)の子名越流、北条光時(mitutoki)である。  得宗家が北条一門への支配を強化しつつある事に、反発していたのである。 もっとも微妙であったのが、故大江広元(hiromoto)の四男、毛利季光(suemitu)の去就であった。 妻は泰村の妹だったが、娘は経時の弟北条時頼と、まだ泰時が生きている時期に、すでに結婚していたのである。  なお大江広元の嫡孫長井泰秀(yasuhide)は、早くから 「執権派 」だった。

こうした状況の中、対立は膠着状態となった。寛元四年四月一日執権経時が突然、発病し二十三歳という若さで死んだのです。
新しい得宗は弟・北条時頼、二十歳の若年ではあったが、果敢であった。  得宗家の家督を嗣立すると、北条一門で宿老格の北条政村(masamura)、金沢流北条実時(sanetoki)に、生母松下禅尼の弟安達義景(yosikage)を自館に集め密談した。   (吾妻鑑)

後の寄合(yoriai)という家族会議で常設の重要会議になっていくのである。  「宮騒動・寛元の乱 」は機先を制した時頼の作戦が功を奏し「執権派 」が勝利した。  さらに、宿敵三浦氏との対決「宝治合戦 」については前章・五代執権・北条時頼に詳しい。     次回へ

*次回から本題となる 「時頼から時宗への権力移譲 」です。  父時頼が幕府五代執権、嫡男時宗はなぜ八代執権 になるのか?・・・なぞはこれから。  
       
丁酉・辛亥・壬戌
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