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鎌倉幕府八代執権・北条時宗

2017.10.14(07:00) 96

**権力の確立

**人事異動

文永元年(1264)4月、六代将軍・宗尊親王(munetaka)に、一子が生まれた。 後の惟康王(koreyasu)である。
生母は故近衛兼経(kanetune)の姫・宰子(saisi)、時頼の猶子だった女性である。

同じころ、一番引付の頭人だった大仏流・北条朝直(tomonao)が死んだ。59歳だった。 義時の弟時房の四男で、北条一門では元老格の存在だった。  六月には後任の人事が発令され、二番引付の頭人だった名越流・北条時章(tokiaki)が繰り上がった。
次に三番頭人の金沢実時(sanetoki)が二番頭人に、そして平の評定衆だった安達泰盛(yasumori)が、三番頭人に昇格した。  この頃から安達泰盛は急速に昇進を遂げてゆく。
妹が時宗の妻だった事と関係があるだろう・・・。 まだ14歳ではあったが、得宗である時宗の威権は、かなりのものであったと思われる。

この人事異動の直後、執権・長時(nagatoki)が病に倒れた。  その後執権を辞して出家した。  八月に入り、執権の後任に、これまで連署であった北条政村(masamura)が就任した。 北条一門中での元老格の存在で、老練な政治家でもあり、今まで次席の執権だったことから、誰にも異論のない人事であった。 しかし、政村が執権に昇格したあと、欠員となった連署には、十四歳の時宗が就任したのである。 そのような中前執権の長時が死亡した。35歳の若さであった。

これを世上は、どの様に観たのか、時宗の庶兄時輔(tokisuke)の反応は、どうにも気になる。   これまでの幕閣の中枢は、若き執権長時を、老練な連署の政村が、補佐してきた。  それが今逆転したのである。 政務に熟達している政村が執権で、これを補佐すべき連署は、若年未熟の時宗という事になったのである。 果たしてうまくいくのでしょうか?

一方、この人事を時宗が政務の実際を政村から学習するためのものだったとする研究者もある。  この解釈に従うと、連署の時宗には実権は無かったという事になるが、本当だろうか・・・・・。何れにしても新人事があってから以降の一か月間、 鎌倉中に不穏な気配が漂ったらしい・・・・。

不穏な気配が次第に以上に昂ぶりつつあった頃、 追加の人事が発令された。
意外なことに時宗の庶兄時輔(tokisuke)が、六波羅探題南方(minamikata)に起用されたのである。  かつて頼朝が幕府の京都出張所という形で設置した京都守護は、承久の乱後、六波羅探題と職名を変えて、その職務も拡大された。

公表はされなかったが、六波羅探題には、京都朝廷が承久の乱のような事件を起こさないよう監視する任務もあった。  通常は北方(kitakata)と南方との二人制であり、共に北条一門から選任された。  北方は、この頃まで極楽寺流が独占し、南方よりは上位とされていた。
極楽寺流・北条氏菩提寺   極楽寺本堂 (鎌倉・極楽寺)
極楽寺・本堂
極楽寺・山門     開基北条重時   開山忍性
極楽寺・山門
極楽寺・三門

一方、南方は仁治三年(1242)、佐助流北条時盛(tokimori)が辞任してから以降、23年間も欠員だった。  要は南方はいなくても、六波羅探題の政務に支障はないばかりに南方は低く見られていた。  その様な南方に23年ぶりに任じられたのが、北条時輔であった。 北条一門の本宗である得宗家の一員である時輔が、北条庶家である極楽寺流・北条時茂(tokisige)の下位にあると、世に示されたのである。

一方で、時輔は鎌倉から追放されて、京都で時茂の監視下に置かれたとも、世上は見たかもしれない。 時宗は次男でありながら得宗家の家督を嗣ぎ、今は幕府の連署にも就任している。  その時宗から庶兄の時輔は、目の上の瘤として疎まれ、遠く京都の閑職に左遷されたことは明らかであった。   次回へ

丁酉・辛亥・甲戌
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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