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鎌倉幕府八代執権・北条時宗

2017.10.18(07:00) 97

**時宗・権力の確立

**将軍との確執

文永二年(1265)正月元旦、恒例の椀飯(ouban)役、時宗が務めた。  連署でありながら、15歳の時宗が年長の執権政村(masamura)を差し置いて、幕閣で第一番の要人であることを、内外に闡明にしたのである。

その元旦、事前に天文道の博士たちから、「その日、日蝕あるべし」と、予言されていた。  当日、実際には雨だったので、日蝕は正現しなかった。 例年出座している将軍宗尊親王(munetaka)の出座は無かった。

「正現せずとも、本日は日蝕なり。 将軍家の御尊体を露わにさるれば、必ずや不吉な事あるべし」  将軍側近の京下りの公卿たちが、そう言って将軍の出座を止めたと伝わる。 将軍は欠席したが、椀飯は強行された。

「正月三が日の椀飯は、右大将(頼朝)家の御時より以来、幕府恒例の公式行事たるなり。 たかが正現もせぬ日蝕の故に、棄破せらるべからず」    時宗たちは、こう主張したのである。  その勢いに押されたのか、将軍側近の大納言・土御門顕方(akikata)は、「必ず出席する」と云ってきたが、結局は欠席であった。


文永二年は、元旦早々から将軍と時宗の確執が表面化した。   将軍が 「毎年の年頭、初度の評定衆の会合には、(評定始め)という幕府恒例の儀式在り。 本年の元旦には幕府恒例の儀式と称して、日蝕なのに椀飯を強行す。 なれば(評定始め)も、他日に正式に行われるべし」 とクレームが付けられたのである。 将軍側からのしっぺ返しであった。
何らかの理由で評定衆の会合が中止になっていたのか・・・・?
後日、麗々しく評定始めが行われた。 将軍の言い分を、時宗たちは受け入れたのである。 

名越流北条氏は、かつて宮騒動などでは、反得宗の前将軍九条頼経方だった。  当主北条教時(noritoki)自身も、現将軍宗尊親王の近侍であった。 将軍御所では御格子番・昼番衆・廂番衆・御鞠衆などを歴任し、御鞠奉行に任じられている。 また官職も、刑部少輔から中務權大輔に昇任している。   教時の地位は、すべて将軍から与えられたものだった。 時宗の得宗家が与えたのは、引付衆だけであった。  しかし時宗はこの年将軍派の一角を懐柔すべく教時を評定衆に登用したのである。  しかし、教時が将軍派から得宗派に転向するか否かは、この程度の事ではまだ心許なかった。

**庶兄時輔

文永二年三月、六波羅探題北方の時茂(tokisige)、南方の時輔の二人は連署して、尾張守二階堂行有(yukiari)に宛てて「六波羅御教書」 を発した。  その末尾の部分は、次のようになっていた。  問題は内容ではなく、その文書の発行者に京都・六波羅探題北方・南方が連署していた事だ。  二階堂行有は尾張守で、時茂は左近将監だから、共に官職は従五位下であった。 しかし、時輔は、無位無官だった。 文書にある裏花押とは時輔の謙譲の態度を示すというよりは、行有や時茂のような有官者に対して、自分は無位無官だから 「私は貴殿方の名前が記されているのと同じ表面に、書判出来る身分ではない」と言っている訳で、極めて卑屈な、屈辱的なものであった。  しかし、これが、京都での時輔の立場であった。

後嵯峨上皇を首班とする当時の京都朝廷でも、さすがに見兼ねたのか、或は時輔の立場が過度に低すぎて、交渉しにくかったのか、この年の四月、時輔は叙爵して従五位下になり、同日式部丞に任じられた。   鎌倉にいた時宗たちが、認めた上での叙爵と任官であろう。

京都朝廷に対して幕府を代表する役職の時輔が無位無官では幕府の体面に関わると、時宗たちが考えたのかも知れない。 執権政村と連署時宗とが連署した、六波羅に御教書を書き送っているが、その文面の宛名には、時輔は明らかに「相模式部大夫殿」 と記されている。 時輔の叙爵と任官とを、時宗たちは追認したことになる。

しかし、一方では時輔の叙爵任官の後、時宗の同母弟の宗政(munemasa)が従五位下の右近将監になっている。  異母兄の時輔と、均衡を図ろうとしたのである。  時輔の叙爵任官を、時宗たちが快くは思っていなかったことが、ここに示される。

時輔は、ようやく従五位下の式部丞になり、署名する時には、「式部太夫」 と書ける身分になったのだが、六波羅探題という立場で発した御教書には、「散位」 (sanni)と書判している。

*散位・・・・位階はあるが、官職は無い。

「式部丞」 という官職を得ていた時輔は、この時点で「式部丞」 ではなくなっていたことになる。  自主的に時輔が辞任したのか、辞任する様に強制されたのか、それとも朝廷から官職だけ剥奪されたのかは不明である。 しかし、これ以降時輔は死ぬまで六波羅探題南方であったが、この間、発せられた十余通の御教書の時輔の書判は、つねに「散位」 であった。 死ぬまで時輔は、無冠だった事になる。

ところで、さらに不可解なのは、時宗が時輔に宛てて出した御教書では、つねに宛名が「相模式部太夫殿」 だったのである。 時宗は、時輔の式部丞辞任を、あくまでも認めないとしているかのようであった。 何れにしても以降、時輔は「散位」 と自署して、自分が無冠である事を、他に誇示し続ける。  これに対し時宗は、つねに時輔を「相模式部太夫殿」 と書いて時輔の式部丞辞任の関して感知していないという立場をとり続けたのである。

鎌倉幕府の記録書「吾妻鑑」には、時頼の死後、時輔は一度も登場していない。 六波羅探題南方として、時輔が鎌倉に報告書を送っても「吾妻鑑」はこれを完全に無視している。  対立と反目、時宗が苛めたのか、時輔が拗ねたのかは、今となっては謎である。     次回へ

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